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下関・北九州散歩

門司

JR門司駅

JR門司駅

 門司駅前でタクシーを降りる。まだ午前6時前で街は寝ている。しかし「早起きは3文の得」とかいうが、旅行中の早起きは時間を有効に使えるので大切なことだ。早朝に到着するフェリーの利点でもある。予定では、今日はちょっと忙しいことになっている。

JR門司駅

JR門司駅

 ここから関門トンネルを通過して下関に直接行くことは当然できるが、船好きとしてはできればそうはしたくない。そこで一旦門司港に出て、そこから関門汽船のフェリーで関門海峡を渡ることにする。眠気覚ましの缶コーヒーを飲みながら、敢えて門司港駅に向かう。

 国の重要文化財に指定されている門司港駅の駅舎には、「関門連絡船通路跡」がある。その案内板には「九州と本州を結ぶ唯一の鉄道連絡船として栄えてきたが、関門トンネルの開通に伴い衰退し、昭和39年11月1日廃止となりました。」とあった。

 駅前には「門司郵船ビル」があるが、以前訪れたときは現役として使われていたものの、現在は1階にコンビニ店が入居しており、その他は郵船不動産が管理する貸し店舗、貸し事務所になっていた。どうもコンビニ以外は空室のようだった。「当ビルは観光の為の施設ではございません。」との紙が貼られていたが、観光のためにでも利用しないとうまく行きそうにない感じでもあった。もっとも「日本郵船」の看板だけは誇らしげに掲げられてはいたが…。

第一船だまり

第一船だまり

 早朝のため、まだ門司港周辺の観光施設は営業していない。しかしこれらの施設には以前訪問したことがあるので、船を中心に見て歩く(旧大阪商船、三井倶楽部、海峡プラザ、旧門司税関、国際友好記念図書館、門司港レトロ展望室、港ハウス等がある。)。「第一船だまり」に「みらい」という観光船と、船名は未確認のレストラン船の姿があった。ぐるりと回って「ブルーウイングもじ」という跳ね橋を渡り、「マリンゲートもじ」という名の連絡船乗り場に歩いて行った。波止場には犬を連れて散歩をしている人がいたが、私は犬は大の苦手なので避けて歩いていた(笑)。

ヴォイジャー

ヴォイジャー

 「ヴォイジャー」(1990年建造、132G/T)の姿があった。この船は三菱重工業下関造船所で建造された「世界初の揺れない船」だ。客室と船体を結ぶ4本のシリンダーが上下して揺れを吸収し、船体は揺れても客室は水平に保つという画期的な構造の船として知られている。しかし昨日体験した土佐沖の大時化の中でも揺れないのだろうか。あれだけ時化ると、いかにハイスティブルキャビン船だとはいえ、揺れてしまうだろう。(株)スペースクルーズの運航。

ダイアナ

ダイアナ

 こちらは同じくスペースクルーズが運航している「ダイアナ」(52G/T)。「ヴォイジャー」の代替船だ。並んで停泊していた。

マリンゲートもじ

マリンゲートもじ

 門司港桟橋にある「マリンゲートもじ」。関門汽船の門司港と下関(唐戸桟橋)を結ぶフェリー、関門観光船の他、石崎汽船の松山観光港行きの高速船、「シーマックス」(1998年建造、284G/T)が使用している。

クルーズ文化講演会 ぱしふぃっくびいなすin北九州

クルーズ文化講演会 ぱしふぃっくびいなすin北九州

 中に入ると、待合いの椅子に浮浪者が一人寝ているだけで、がらんとしていた。自動販売機で切符を買って船を待つ。桟橋に通じる出入り口の近くに「クルーズ文化講演会 ぱしふぃっくびいなすin北九州」のポスターが貼られていた。「ぱしふぃっくびいなす」(1998年建造、26,518G/T)は評判の良いクルーズ船だが、運航する日本クルーズ客船の親会社は関光汽船であり、その関光汽船の本店は下関にある。つまりこの辺りが本拠地という訳だ。

ふぇありいII

ふぇありいII

 桟橋には「ふぇありいII」(19G/T)が係留されていた。こちらは関門海峡遊覧船・貸切船として使われているらしい。

ふぇありい

ふぇありい

 関門海峡を5分で結ぶ「ふぇありい」(19G/T)がやって来た。ところで「ふぇありい」とはどういう意味なのだろう。私は最初、「フェリー」のことかと思い、「フェリー(=連絡船)」という名の「フェリー」は珍妙だとここに書いた。すると妖精の意味の「Fairy」のことではないかとの書き込みをこのサイトのBBSにいただいた。船には英語表記がなかったので断定はできないが、ご指摘のように恐らく「妖精」という意味なのだろう。

ふぇありい

ふぇありい

 出港時間が近くなると、どこからともなく乗客がやって来た。切符を持って乗船する人は少数派であり、多くの乗客は定期券を見せて乗船していた。船員が「大変だね。」などと声をかけている客がいるところからすると、毎朝、下関へこのフェリーで通勤している人達のようだった。

関門海峡

関門海峡

 かくして下関(唐戸桟橋)までの4km、5分間のクルーズとなる。ご覧のように関門海峡の交通量は大変なもので、次々に貨物船がやってくる。ここを横断するのは、高速道路を走って横断するようなスリルがある。船は果敢にも船列に飛び込んでいった。地元客は慣れているようだったが、どてっ腹に船が迫っている中を通過していく様は見事だ。無事に下関に到着した。

下関

唐戸桟橋

唐戸桟橋

 今回の旅では新門司港と博多港の間で丸1日時間があったが、この時間の大半を下関観光に充てることにしていた。以前、門司港を訪れた時に対岸には是非とも渡ってみたいと思ったものだったし、船好きの一人として下関の造船所には訪れておかなければならないと感じていたからでもある。新門司港までの海上は荒天だったが、下関はご覧のように晴れていた。まだ午前7時過ぎだ。

 目の前にある「下関グランドホテル」は、下関一のホテルのようだ。その北側に「カモンワーフ」という観光客用のレストラン、土産物屋がある施設があり(2002年4月開業)、その隣に「唐戸市場」があった。「カモンワーフ」はかっての唐戸市場の跡地に建設されたものらしいが、へそ曲がりの観光客としては、市場等が近代的で立派な建物になっているとちょっとガッカリしてしまう。

唐戸市場

唐戸市場

 ということで、「唐戸市場」(2001年4月竣工)は立派過ぎて味気ないなぁ、と思いつつ入っていった(そういう人はふぐの競りが行われる「南風泊市場」の方が良いかもしれない)。

唐戸市場

唐戸市場

 どこが正式の入口なのか判らず、どさくさで中に入っていくと、上から市場の様子を見学できるようになっていた。学校の社会科見学みたいな感じだ。

唐戸市場

唐戸市場

 失礼ながら上から見学させていただく。「宅配便」ののぼりが見えるので、ここで生魚を買うことは可能のようだ。那覇の牧志公設市場に行った時は、(本土では珍しい)分厚い豚肉を買って自宅に送ってもらったことがあるが、しかし生魚を旅先で買うことには抵抗感がある。その場で食べちゃうのが一番だろう。

市場食堂「よし」

市場食堂「よし」

 ということでこの建物の中にある市場食堂「よし」に行った。こうしたところは、例えば函館朝市にもあるが、一般に観光化が進んでいて地元客が少なくて失望することが多い。ところがここは市場の関係者が朝食を摂りにやって来ており、正に「市場食堂」だった。「ふぐ刺定食」(1100円)を注文する。カウンターでは、しきりに(子供の?)高校入試の話をしていた。なんでも「南高校」というところが難関らしい。

ふぐ刺定食

ふぐ刺定食

 観光ガイドには下関では河豚は「ふく」と言う等と書かれているが、ここでは「ふぐ」だった。観光客相手にふぐ料理を出す店が多いが、コース料理は2万円前後。ただ、それを食べるためには夕食になるように旅程を立てる必要がある。昼食ということも考えられるが、量が多いだろう。朝食の場合はそもそも店が開いていない。そこで市場の中で刺身を食べることにした。

 考えてみれば今朝まで「冷凍食品漬けの毎日」だったわけであり、久々の御飯だった。やっぱり超合理化船は考え物だな。熱い味噌汁を飲んで元気が出る。

「はまゆう」と「ふぇありい」

「はまゆう」と「ふぇありい」

 食後、関門海峡側のテラスに出てみると、関釜フェリーの「はまゆう」(1998年建造、16,187G/T)が、韓国の釜山から下関に到着するところだった。船首に展望デッキが付いており、船首舷側のランプがなければカッコイイ船だ。そう、私は船を一周できる遊歩甲板が付いたこうしたタイプの船が好みなのだ。下関港は左舷付けで、右舷にある船首のランプは使っていないようなので、釜山港の事情に応じて付けられたランプかと思われる。この船も三菱重工業下関造船所の建造だ。

春帆楼・日清講和記念館

春帆楼・日清講和記念館

 下関の街をちょっと散歩しよう。ここ「春帆楼」はふぐ料理で有名な割烹旅館だが、そこを会場に1895年に日清講和会議が開かれた。簡単に言えば日清戦争に勝利した日本が清国と下関講和条約を締結したところである。観光ガイドブックには平和のための講和条約を締結したところのようにぼかして書かれているが、ぼんやりとそう思ってここを訪れてはいけないだろう。この条約を足掛かりに日本は朝鮮の支配権を確保し、台湾等を領有することになった。つまり下関は大陸進出(侵略)の起点でもあった訳だ。そして遼東半島の領有を巡ってロシアを中心に三国干渉がなされ、それが日露戦争へと繋がっていった。

日清講和記念館

日清講和記念館

 春帆楼の脇にある日清講和記念館の入口にある下関市教育委員会の案内板には次のように書かれていた。「この記念館は、日清講和会議に使われた調度品類や貴重な資料などを公開するため、昭和12年に開館されました。展示品の中でも、特に椅子類はかっての浜離宮の調度で、ランプ、ストーブ、硯箱、インク壺、朱肉入れなどと共に、講和会議の様子を今に伝える貴重な歴史資料です。明治28年(1895)に、隣接する春帆楼を会場に行われた日清講和会議は世界の外交史に残るもので、日本全権弁理大臣伊藤博文と清国講和全権大臣李鴻章の2人を中心に両国の代表2名が列席して和議交渉を行いました。なお、この交渉の途中で、清国全権李鴻章が暴漢によって狙撃され、負傷するという事件も発生しました。」

赤間神宮

赤間神宮

 春帆楼の先にはご覧の「赤間神宮」がある。この朱塗りの門は、対岸の門司港からもよく見え、以前門司港を訪れた時から気にはなっていた。1185年の壇ノ浦の合戦の際に入水した安徳天皇を祭っているという。「壇ノ浦」とはこの辺の海のことであり、ここで平家は全滅した。しかし貨物船が頻繁に行き交う関門海峡で、源平合戦を思い浮かべることは難しく、義経が見ていた海とは全く違うものになっていることは確かだ。

亀山八幡宮

亀山八幡宮

 下関の市街地の方向に戻ってくると、「亀山八幡宮」がある。とても目立っているのだが、旅行ガイドには殆ど紹介されていない。林芙美子の文学碑などがあり、近くには「床屋発祥之地碑」もある。

旧下関英国領事館

旧下関英国領事館

 古くから開けた港町には、古い洋館建ての建物が多いが、こちらは1906年に建築された旧英国領事館。和洋折衷の建物だ。

旧秋田商会ビル

旧秋田商会ビル

 建物の前にあった案内板にはこう解説されていた。「旧秋田商会ビルは、大正3年(1914年)に着工し、翌4年に竣工した鉄骨鉄筋コンクリート造の建築で、地上三階、地下一階、塔屋付き、屋上には日本庭園と茶室がある。内部は一階を洋風の事務所空間、二階及び三階を格調高い書院造住宅としている。西日本で最初の鉄筋コンクリート造の事務所建築であるとともに、わが国に現存する同種建築としては最古級のものである。(中略)なお、秋田商会は日露戦争末期の明治38年4月1日の創立、主に木材取引などの商社的な海運業を営み、最盛期には台湾・朝鮮半島・満州にも進出した港湾都市下関を代表する企業であった。創業者の秋田寅之介は、市議会議員や衆議院議員を歴任し、当地の政界や経済界において重きをなした。(後略)」

下関港国際ターミナル

下関港国際ターミナル

 人は高いところに上りたがるものだが、高さが153mある「海峡ゆめタワー」から見た下関の眺めだ。まずは「下関港国際ターミナル」。関釜フェリーの「はまゆう」がバッチリ拝める。さらに手前に「新日本海フェリー」の看板を掲げた「関光汽船」の本社社屋にも気がつくのではないだろうか。「船好きワクワクの光景」だろう。後でここには行ってみることにしよう。

三菱重工業下関造船所

三菱重工業下関造船所

 その向うに「三菱重工業下関造船所」がある。左に見える島は、1612年に宮本武蔵と佐々木小次郎の二大剣士が決闘した「巌流島」であり、右の造船所に見える船は、名門大洋フェリー向けの「フェリーふくおか2」だ。艤装工事中であり、殆ど完成していた。この船の奥が江浦工場。そして中央に大きく張り出した埠頭が大和町工場だ。ここも後で訪れよう。

六連島(日本海)

六連島(日本海)

 右手にあたる北方向を見ると、「六連島」などの離島が見える。六連島には、下関市が運航するフェリーが竹崎渡船場から20分で結んでいる。時間があれば渡ってみたかったが、今回は見るだけにした。

関門橋

関門橋

 反対側の東方向を見ると「関門橋」が見え、その奥に満珠、干珠という離島が見える。右が九州の門司、左が本州の下関である。そして中央が瀬戸内海ということになる。

関光汽船・下関港国際ターミナル

関光汽船

関光汽船

 「海峡ゆめタワー」(写真中央)を降りて、まず「関光汽船」の本社社屋に向かった。こちら側から見ると、「阪九フェリー」の看板が見える。阪九フェリーは日本初の長距離フェリー「フェリー阪九」(1968年建造、4,990G/T)を、1968年8月に神戸―小倉間に就航させた会社として、あまりにも有名だ。しかし、「新日本海フェリー」の看板も掲げられていることに疑問を持つ人もいるかも知れない。実は「阪九フェリー」(資本金12億円)、「新日本海フェリー」(資本金19億5,000万円)、「関釜フェリー」(資本金2億1,600万円)、「オリエントフェリー」(資本金1億円)、「西日本汽船」(資本金9億5,000万円)、「日本クルーズ客船」(資本金3億円)等による「SHKライングループ」の母体となっているのが、この「関光汽船(株)」(資本金2億5,000万円)なのである。

 関光汽船は、1948年に「下関機帆船輸送組合」を組織変更して「関光海運(株)」と改称したところから始まり、1966年に現在の商号となった。内航運送業を主体に創業し、現在では多数のフェリー、クルーズ船を運航している日本では有数のオペレーターに成長している。

下関港国際ターミナル

下関港国際ターミナル

 その関光汽船の本社社屋のすぐ近くに、「下関港国際ターミナル」がある。ちょっと中を覗いてみよう。

星希

星希

 入ると玄関に韓国の釜関フェリーの新船、「星希(ソンフィー)」(2002年建造、17,000G/T)の就航を祝する横断幕が掲げられていた。ひょっとすると背後の水墨画が記念品か何かなのかも知れない。「星希」は韓国の現代尾浦が建造した2002年5月就航の船だ。

下関港国際ターミナル

下関港国際ターミナル

 内部の待合いロビーはこういう感じ。「福免税店」などという店も見え、国際ターミナルであることを実感する。後ろの方で小柄な年配の韓国人男性が、怒ったような調子で韓国語を話している。単に怒ったような調子に聞こえるだけなのか、本当に怒っているのかは判らなかった。

 関釜航路のフェリーの前身は、1905年に山陽鉄道会社が開設し、その後国鉄が引き継いだ鉄道連絡船である。第二次世界大戦中の1945年6月に、戦局悪化により事実上廃止となり中断していたが、1970年6月に復活した。在日韓国人・朝鮮人に「民族の恨の交錯する連絡船」などと表現されると、ちょっと考えてしまうが、確かにそうした過去を持つ航路だと言えるだろう。

下関港国際ターミナル

下関港国際ターミナル

 現在は韓国釜山と結ぶ「関釜フェリー」、「釜関フェリー」の他、中国青島とを結ぶ「オリエントフェリー」もここを発着している。現在オリエントフェリーが使用している「ゆうとぴあ」(1987年建造、27,000G/T)は、新日本海フェリーの「ニューはまなす」だった船だ。

三菱重工業下関造船所

三菱重工業下関造船所江浦工場

三菱重工業下関造船所江浦工場

 さて今日の最大のお楽しみはここ、三菱重工業下関造船所を見学することだった。ここに「史料館」というものがあることは、三菱重工のウェブ・サイトで知ってはいたが、具体的にどこにあるのかは知らずにやってきた。勿論、観光ガイドブックには書かれておらず、タクシーの運転手さんも知らないようだった(長崎造船所とはちょっと勝手が違っている感じだった。)。

 写真は江浦工場の入口。右の建物が司令所であり、ここの窓口で尋ねた。窓口で応対してくれたのは、ちょっと厳つい感じの男性職員だったが、記帳後、その部下らしい方に左手にある第一事務所内にある「史料館」に案内していただいた。ちょうどお昼時だったので申し訳なかったが、大変丁寧に案内をしていただいた。

史料館

史料館

 こちらが「史料館」内部。ご覧のように船舶模型や工具、社史のような船舶関係の書籍、写真が展示されていた。下関造船所は1914年に三菱合資会社・彦島造船所として設立されたことに始まる。東海汽船向けのレストラン船「ヴァンテン」(1989年建造、1,717G/T)などの他、東日本フェリーや九越フェリーの使用船、最近ではP&O Ferries向けのEuropean Highlander (2002年建造、20,650G/T)などを建造している。史料館は、創業80周年を記念して1995年に開館したものだ。しばらく写真を撮りながら見学し、備え付けのビデオで、朝に見てきた揺れない船「ヴォイジャー」の紹介ビデオを見ていた。

 ところがその様子を室内の防犯カメラで見ていたのか、先程の厳つい感じの職員がやって来て、「構内は写真は禁止ですので宜しく。」といって去って行った。いつもそうなのか、それとも2002年10月1日に長崎造船所であった艤装工事中のP&O Princess向けのクルーズ船、Diamond Princessの火災事故が影響しているのかどうかは判らない。とにかく写真はダメらしい。しかし注意される前に撮ってしまった写真はちょこっと載せてしまおう。

史料館

史料館

 「へすていあ」の写真がある。乗ってきた船なので感動してしまう。実は今日これから乗船することになっている「ニューれいんぼう」もここの生まれだ。

 ここの社内報「下船ニュース(2002年9月号、461号)」の表紙は名門大洋フェリー向けの「フェリーきょうと2」だった。先程みた「フェリーふくおか2」の姉妹船だ。その社内報に柳澤順三艤装課長のエッセイが掲載されていた。少し引用しよう。

 「『フェリーきょうと2』の海上試運転が7月30日から8月1日まで実施され、この間運転統括者として乗船する機会を得ました。試運転結果は上々で、その形容は海面を疾走すること風の如く、船内の静かなること林の如し、内燃機関の力強きこと烈火の如く、船体の揺れない様まさに山の如し。(後略)」

 「船内の静かなること林の如し」これは多分そうでしょう。ところで名門大洋フェリーの商売敵と言えば、阪九フェリーだが、2003年就航予定の2船もここで建造中だった。第1船の「やまと」は船台で船の形になっており、第2船の「つくし」はまだブロックの段階だった。ライバルになるのだろうが生まれは同じなので、これらの船の乗り心地を巡ってあれこれ言ってみても始まらないような気もしなくはない。

びなす

びなす

 史料館のある「第一事務所」の玄関ロビーには、東日本フェリーの「びなす」(1994年建造、7,198G/T)の模型が展示されていた。何と「第1000番船」なのだという。青森―函館間で乗船したことがあったが、由緒正しき船だとは知らなかった。私が津軽海峡でウロウロしていた遊歩甲板も精密に再現されていた。

江浦工場

江浦工場

 工場界隈をぶらつきながら、JR下関駅方向に歩いて行く。工場への出入り業者の車は、やっぱり「三菱自動車」の車だった。そういえば、確かに三菱の車が多い。

巌流島渡船場

巌流島渡船場

 巌流島(舟島)への船はここから出ているようだが、ちらりと造船所の様子も垣間見ることもできる。マニア向けスポット。

下関市内

下関市内

「小倉行きフェリー」という看板も見える。関門海峡フェリーが下関(彦島)と小倉(日明)との間を13分で結んでいる。それに乗船して九州に戻ることも考えたが、小倉での移動が大変になるので、JRで移動することにした。

下関漁港

下関漁港

 途中見かけた下関漁港のロック。ヨーロッパの河川にあるロックのようでもある。駅まで歩いて行くが、この町も景気が良くないようだった。閉店しているところが多い。

昼食

昼食

 午後1時過ぎにJR下関駅に辿りつき、列車の時刻を確かめてから、「味庵」という食堂で「ちゃんぽん」にありつく。「ちゃんぽん」として旨い方なのかどうかは分らないが、主観的に旨いと思った。これを食べているお客が多かったから旨いのだろう。暫く充電が必要だ。あぁ草臥れたー。

下関

下関

 下関から関門海底トンネルを通過して九州に移動となる。しかし青函海底トンネルのように、キョロキョロしている乗客はいない。もっとも船で関門海峡を渡ったので、今、その下を通過しているのかと思うと、あんまり良い気分はしなかった。呆気なく九州に戻ってきた。

戸畑―若松航路

戸畑渡場へ

戸畑渡場へ

 後は博多に無事着いて、「ニューれいんぼう」に乗船するだけだ。この場合、普通の旅行者ならば、おとなしく博多に向かうことになる。しかし酔狂な船旅をする人はそうはいかないらしく、何とJR戸畑駅で途中下車した。

若戸大橋

若戸大橋

 駅から歩いて10分くらいのところに「若戸大橋」がある。このサンフランシスコの金門橋のような橋に用があるのではなく、実は橋のたもとに用があった。

戸畑渡場

戸畑渡場

 ここが「戸畑渡場」だ。橋の下からフェリーが出ている。ここは日本で初めてカーフェリーを運航したところ。つまり、「日本カーフェリー発祥の地」である。日本最初のカーフェリーは、1934年3月に就航した「第八わかと丸」と「第九わかと丸」(いずれも43G/T)で、トラック2台とオート三輪4台を積載できる両頭カーフェリーだった。しかし実際に行って見るとそうした案内板などはなく、専ら地元の人達の足として使われている生活航路だった。

くき丸

くき丸

 現在は北九州市渡船事務所が運航しているが、橋が出来たため自動車は積載していない。自転車と徒歩客だけなので、「カーフェリー」ではなくなっている。この「くき丸」はどうやら予備船のようだった。

第17わかと丸

第17わかと丸

 暫くすると、「第17わかと丸」(1987年建造、43G/T)が若松側からやって来た。あの船に乗るらしい。旅客定員170人の船だ。

乗船口

乗船口

 若戸渡船の運賃は、大人50円、子供20円だった(2002年現在)。このゲートを潜り抜けて乗船となる。

乗船口

乗船口

 乗客に観光客などはいない。専ら地元客で、下校途中の高校生などが多かった。若松には競艇場があるので、そうしたところに行く客の需要もあるのかも知れない。

第17わかと丸

第17わかと丸

第17わかと丸

 船内はご覧の通りであり、自転車を持ちこむことが可能で、徒歩客は自転車客のためにこうした場所に立たないようにする暗黙のルールが確立しているようだった。

若松渡場

若松渡場

 あっと言う間に、洞海湾の600mを渡ってしまった。「ここは日本のカーフェリーの発祥の地なんです」なんて言ったって、誰も耳を傾けてはくれないような感じだったが、私個人としては有意義な船旅だった。…と涼しいことを言っているが、もう疲労のピークだった。ちょっと今日は盛り沢山過ぎだった。JR若松駅に行く途中の図書館の前のベンチで暫く休む(年だなぁ)。長い1日だったが、まだ終ってはいない。そう、これから博多に出て「れいんぼう」に乗船しなければならないのだ。あとひと踏ん張りだ(でも、何で頑張ることになるわけ?いつも反省することだけどね。)

若松

若松


博多―直江津編