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ウイリアム H.ミラー, Jr.「現代クルーズ船、1965年―1990年」

1、60年代:過渡期

 ニューヨークがまだ世界最大の旅客船港であった時、自慢の「豪華定期船が列をなした」古い第84埠頭から船に乗ることは、人生最大の 冒険を始めるように思えたものだった。船旅、すなわち大型の遠洋定期船で旅をすることは、正にクルーズであったのだ!しかしクルーズは、 今日そうなったような一般的な概念では全くなかった。送別会が開かれ、600人の乗客を見送るために2000人かそこらの参加者がやって 来て、(船内の)公室でも宴会が開かれ、船室では(通常は紙コップで)シャンペンが振舞われ、航海中には流行遅れの楽団が演奏し、甲板か らは色とりどりの吹流しが緩やかにたなびいていた。そこには離別の情感といった感傷があった。航海は遠洋定期船の旅の最大の儀式の一つで あったのだった。また、着飾って宴会に出て、船内を探検し、張り詰めた高揚感を感じたい者にとっても一つの経験の場であった。

 1967年の晩夏、ギリシャのQueen Fredericaは大西洋を運航していた老朽船の一つであったが、船齢は40年の歴史的に有名な船で、5社目の会社の下で運航していた。当時の典型的な船でもあった。他 の多くのクルーズ船は更に古いもので、当時減少していた港湾間を結んでいた、古い等級に区別された船舶であった。しばしば観光航海向けに 改造され、上甲板にはプールが1つか2つ設けられ、冷房機能が拡張され、個人用の浴室が下部甲板の船室に増築された。Frederica はグレードアップされたが、長い船歴故に多くのこぼれ話があった。多くの木工品、天井のしばしば塗装されていた配管と配線の束、2階建て の音楽観覧席、そして当時の様式の食堂である。

 バミューダ島への5日間クルーズは、最低額が150ドルであった。1日当たり20ドルは、当時でさえも安いもので、そうしたB甲板の 船室には個人用のシャワーも付いていた。何て豪華だろうか!食事は良いもので豊富であった(そして明らかにギリシャ風)。サービスはきび きびとしており、夜会は格式ばったものだった。より形式ばった衣装を身につけ、より長いディナー・ガウン(=ドレス)やタキシードを羽織 り、そして「乗船歓迎」舞踏会では、ギリシャ海軍から勲章を賜った船長が挨拶をした。この高揚感は最後の最後の第84埠頭に戻ってくるま で続いていたように思われた。クルーズは当時、こうした特別の冒険だったのだった。

 この章では、現代クルーズ事業の先駆者達を見ていく。すなわち、クルーズの標準となったCunardのCaronia、大型大西洋横 断超定期船、「新婚旅行船」のQueen of Bermuda、ArgentinaとBrasil姉妹の異なる船歴、そしてAndesやReina del Marのような、ヨーロッパに本拠を置いたかって人気を博したクルーズ船である。

2、新世代:最初の波

 1973年晩春のある日のこと、私は特別のご馳走に与った。世界で最新のクルーズ船の処女航海の最後の1時間かそこらを楽しんだので ある。ニューヨークのローアー・ベイで曳船から乗船した。この素晴らしいVistafjordは、クルーズ船の新時代を代表するものであ り、多くの人々が「Scandinavian armada(=スカンジナビアの無敵艦隊)」と呼んでいたものに加わったのである。70年代初期において、新しいクルーズ船会社が溢れたように見え、その多くがオスロに 本拠を置いていた。特にノルウェー人は貨物船や油槽船(タンカー)で得た莫大な富を使い、カリブ海クルーズの将来を明るいものと見て、と りわけ人を誘惑するマイアミから船を出していたのである。

 Norwegian Caribbean Lines (現在のNorwegian Cruise Lines)は開拓者である。ここは小型のクルーズフェリーであるSunwardを、イングランド―スペイン間の「陽光溢れる」航路向けに建造したが、その当初から問題を 抱えていた(その多くは英国による海外旅行に課した通貨規制)。新船はこの代わりとなる運航を行う必要があったが、船主はマイアミで博打 をしたのである。これが楽勝であり、直ぐにより大型のSunwardの改良版が続いた。Royal Caribbean Cruise Linesは次に、当時においてより洗練された3隻を投入したのである。傾斜した船首、船体中央部のプール、ブロードウェー・ミュージカ ルに因んだ主題の装飾、そして恐らく最も特徴的だったのは、煙突頂上に付けたナイトクラブであった。大変な大成功を収め、他の者が後に続 いた。

 Royal Viking Lineは例外であった。ここも豪華な定期船を3隻建造したが、カリブ海や短距離旅行向けではなかった。輸送する収容力を約550人に引き下げて(これを約400人の船員 が世話をした)、これらの船はCaroniaを引き継ぐ豪華船であり、GripsholmとBergensfjordはヨット(=行楽用 の船)のような「長距離クルーズ」定期船であった。従って、Royal Vikingの旅程は2、3週間から100日にも及んだのである。すなわち、地中海、スカンジナビア、アラスカ、南米周辺、そして毎年世界一周航海を行った。直ぐに忠実な ファンを獲得した。

 1972年夏、ヘルシンキの大変に勤勉なWartsilia造船所を訪れた際、私はこれら新世代の定期船の2隻を初めて見止めたの だった。Royal Viking SeaとSun Vikingは、艤装ドックに並んで停泊していた。未完成であり、部分的に足場や塗装業者の梯子や乗降口で隠れていたものの、信じられないくらい前衛的なものに見えた。疑 いもなく、新しい種類の一種なのであった。

 こうして1年もしないうちにVistafjordがニューヨークに到着し、旅客海運の将来の気分は明るく楽天的であった。船はゆっく りとアッパー・ベイに進み、それからハドソン川に入って行った。曳船と遊覧船の護衛が並んで走り、消防艇が歓迎放水を吹き上げた。頭上に はヘリコプターが唸り、バース(=停泊位置)に向けて曳船に押されると、本船を景気の良い楽隊が歓迎した。その興奮は刺激的なものであっ た。

3、遠くの海域では

 20年以上に亘り、私は海外の港から多くのクルーズに出掛けて来た。徐々にair-sea(=空路・海路)パッケージによって便利に なって来た。しばしば航海の前後に、1泊かそこら落ち着いたホテルに泊まるものである。70年代中葉までに、乗客は長距離旅行に出かける のが億劫ではなくなって来たのだった。私はロンドンから出発して、サウサンプトン、アムステルダム、ハンブルグ、ジェノバ、ベニス、アテ ネのピレウスにクルーズをしたことがある。更に遠方では、東京―ソウル(注、仁川の誤りか)間、ホノルル―香港間、シンガポール―シド ニー間でクルーズ船に乗船したこともある。目的地は様々なところになっている。バルト海の首都やノルウェーのフィヨルド、スコットランド の離島や北極の流氷、コスタ・デル・ソルやギリシャの離島、中国の都市やインドシナのひっそりとした海域。

 海外のクルーズ船は、本書に書かれているような他の多くの船とは調子が違うものである。より国際的なものだ。しばしば乗客の国籍は 12カ国もの多くに亘り、そうしたことから必然的に、かって1,400人の乗客の中でたった1人の米国人として航海したこともある。

 この章にある大部分の船は、こうした「違った」航海を代表するものである。すなわち、地中海の中古定期船、長い歴史を持つギリシャの 船、最大の旅客船隊を有するソビエトの船である。共産主義者の労働組合クルーズや川船のクルーズ、南極クルーズもある。もちろん余り知ら れていないクルーズ船であれば、大変に興味深いものである。

4、80年代前半:復興期

 1977年3月、群集がニューヨークの新しいConsolidated Passenger Ship Terminal(=総合旅客船ターミナル)の第2バースの屋上に集まった。ここはかって賑わったウェスト・サイド大西洋横断定期船の埠頭に沿って建っている。私達は、世 界で最も新しい17,000トンのCunard Princessの輝くような白い船体を向こう側に見た。特別に持ちこまれた遊覧船が、この新船の船首と埠頭の間に停泊していた。その最上甲板では、この定期船の命名式を 行うための舞台が設けられていた。ニューヨークでのクルーズ船の命名は初めてのものだった。小さな記者とカメラマンの一団がこの行事に やって来ていた。モナコのGrace王妃は名誉を賜ることに同意された。シャンペンの瓶が予定通り船首に当たって砕け、群集は歓声を上げ た。

 しかし落胆させられることもあった。ある業界分析者は、クルーズ産業全体は頂点にあって飽和状態に達しており、更にCunard Princessは、恐らく最後の新造クルーズ船となると言っていたのだった。事実、状況は総じて、数年前のように明るく活気のあるものではなかったのだった。燃料価格 が、トン当たり35ドルから95ドルに跳ね上がっていた。たとえ、ここの上流のバースを船が満たしていたとしても、利益をもはや出せない 船もあったのだった。船主の中には浸水沈没するところもあった。

 しかしCunard Princessが就航して間もなくすると、徐々に、そしてその後注目すべき向上が見られたのである。段々と多くの旅行者が、クルーズの優れた価値を見出したのだ。 1979年までは、多くの会社は発展してはいたが、未だに新船を建造することに気が進まないでいた。そこで2つの代替策が示された。一つ はFrance/Norwayの改造であり、もう一つはRoyal Caribbean CruiseやRoyal Vikingの船舶の「延長工事」であった。

 更に大きく発展した。遂に船主は博打に出たのである。造船所に対し更に大型の船舶の、所謂「新造」の入札をさせたのだった。1980 年代前半には、高水準、最新技術のSong of America、Europa、姉妹船のNieuw AmsterdamとNoordam、FairskyとRoyal Princessがお目見えした。また超豪華な市場向けに特別に作られたSea Goddessの「yachts(=行楽用の船)」や、Carnival Cruise Lineの所謂「mega-cruiseships(=特大クルーズ船)」のような、大きさを増大させた発展物も見られたのである。

5、80年代後半:ブームは継続

 1988年1月、Sovereign of the Seasの「pre-maiden(=処女航海に先立つ)」処女航海に参加した。600人のお客が、2泊の「どこにも行かない」クルーズに招待されていた。それはワクワク するような、目を見張る体験であった。かってない壮大な海を行くホテルに乗船したと思ったものだった。入り口のロビーは5層のアトリウム (=中庭)になっており、ガラス張りのエレベーターがあり、船自体に12チャンネルの「双方向」テレビといった設備が備えられていた。航 海中、マイアミの他の8隻のクルーズ船を圧倒した。その中には、あの力強いNorwayも含まれていた。

 1980年代前半の話題が「大型船」であるならば、その後の後半の話題は「更に大型の船」ということになると思われる。本船が就航し た時、73,000トンのSovereign of the Seasは全時代を通じて第4位の旅客船に位置付けられた(僅かに戦前のQueen Mary、元のQueen Elizabeth、そしてNormandieがこれよりも大きかっただけである)。そして本船の将来に疑いがかけられたならば、船主は運航初年度においては予約で塞がっ ていると自信を持って発表したものであった。2隻の姉妹船が加わり、うち1隻はもう一つの発展のヒントも与えたのである。プエルト・リコ のサン・ファンからの通年クルーズである。

 クルーズ事業は、とりわけ北米において、毎年、着実に発展し、Carnivalによって更に大型の「mega- cruiseships(=特大クルーズ船)」の3隻も加わっている(2,600人乗りの船の1隻は、マイアミとバハマ諸島間の1泊の短 距離クルーズで人気が出ている)。更に、80,000トンから90,000トンの船が全体の効率の点で最大の船であると予言する分析者が いる一方、250,000トンのPhoenix/World Cityの計画を巡る噂や報道が続いている(注、この計画は後に中止)。これはあらゆる点で並外れたものであり、これまでに建造された最大の旅客船となるだろう。

 2つの重要なギリシャのクルーズ運航事業者、Royal Cruise LineとChandrisは、この時期に最初の新船の建造を行った。また日本人は西洋クルーズにおいて贅沢な参入を果たしている(注、日本郵船のCrystal Cruisesのこと)。ノルウェー人の所有するSeabourn Cruise Lines(注、現在は米国Carnival社の傘下)は、最も高価な旅客船と言われる2隻のヨット(注、行楽用のクルーズ船のことであり帆船とは限らない)を就航させ、 Royal Vikingは最も豪華な船と言われている新しいフラグシップを加えている。最後に、合併と買収の時代にあって、PrincessとSitmar、Carnivalと Holland-Americaが合併した。

 クルーズ業界は未だにワクワクさせるものであり、これからもそうであろう。