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ウイリアム H.ミラー, Jr.「図説フレンチ・ライン史」

1、帆船、外輪船、そして汽船

 最初のフランス保有の大西洋横断汽船の運航は、実際には1847年に始まったが(例えばCunardの7年後のことであり、 Hamburg-America Lineの8年前のことでもあった)、しかし直ぐに財政的に破綻した。1856年に2度目の試みがなされた。一方、2人の兄弟であるEmileとIsaac Pereireは、3000万フラン(当時ちょうど200万ポンド)の資本でCompagnie Generale Maritimeを1855年2月に設立した。目標は大西洋航路に参入することであった。直ぐに27隻もの帆船と280トンの2隻の小型汽船を有するノルマンディに本拠を 置く会社を取得した。最後の2隻は、既に大西洋航路に就航し、ニュー・ファンドランド沖のフランス領サン・ピエール島とミクロン島の漁場 を結ぶ補給航路に就航していた。しかし直ぐに大発展した。1年内に、当時こう呼ばれたCGMは、ボルドーはもとよりル・アーブルから、 オーストラリア、マダガスカル、西インド諸島、メキシコ、アルゼンチン、チリ、ペルー、カリフォルニア、そして後にアルジェリアの港に 76隻の船を出していたのだった。だが大西洋の旅客・郵便運航は、Pereire兄弟の当初の目標のまま残っていた。1858年、 Rothschild一族の支援を受けて、西インド諸島へ7隻、ニューヨークへは5隻の汽船を運航する計画が立てられた。郵便助成金がフ ランス政府によって保障されたのだった。

 1861年に政府が必要な貸付を進めるまで、幾つかの財政的逆風が吹いた。その後直ぐにこの会社の名称(=商号)は、 Compagnie Generale Transatlantique (CGT)に変更となった。運航はパリの官僚の用心深い監視の目の下で再編成され、不採算航路は切り捨てられ、帆船は終了が命ぜられた(実際にはCGTでは、1873年ま で、少なくとも10年間ほど帆船を運航していた。)。ニューヨークまでの新しい大西洋横断運航は、1864年の夏に開始する予定であった が、1861年にフランスはメキシコ遠征を行い、計画は早められた。1,900トンのLouisianeはCGTの旗をたなびかせ、 1862年4月にサン・ナゼールからベラクルスへと航海した。

 フランス政府は、11隻の「大型汽船」の新船隊が、3年内にフランスの造船所で建造されることを望んでいた。しかしこれは全くの夢で あった。6隻は外国のスコットランドとイングランドで建造されなければならなかったのだった。英国は3,400トンの船のそれぞれにつ き、フランスに12万1,000ポンドを請求した。1番船として用意されたグリーンノック建造のWashingtomは、1864年6月 にル・アーブルからニューヨークに向けて出発した。その後を、Lafayette、Europeと続いた。ブレストへの寄港は直ぐに始 まった。1867年までに、それぞれの目的地に隔週で航海していた。

 未だに適当なフランスの造船所を見つけることはできなかった。フランス政府の支援を受けているCGTは、自前の造船所を建設する決心 をしたのだった。この会社は地元ではPenhoetと知られていたサン・ナゼールのロアール河の河口の細長い土地を購入した。職人や専門 知識をスコットランドの造船所から引き出して、CGTは4基の造船台を建設し、フランス人が自前の旅客船を建造することが可能となった。 1番船は1862年10月にAtlantiqueとして建造したが、1864年4月就航時までにImperatrice Eugenieと再命名された。本船はメキシコ航路に就いた。

 CGTの運航は繁栄した。後に直ぐより良い船が加わった。1870年までに、ニューヨークとル・アーブル間の横断は、8日間と半日か かっていた。しかし当時の大西洋横断汽船の大部分と違って、CGTの船には3等船室が大変に少なく、主として1等、2等の乗客に頼ってい た。1872年までに外車(=外輪船の水かき車)は、完全に蒸気推進に道を譲っていた。しかし座礁、衝突、そして沈没で、直ぐにCGTは 棺桶に放り込まれてしまったのである。そこで公衆の信頼を回復すべく、1876年、CGTは衝突の危険を最小限にするための「燈台(警告 燈)と電光」を使用していると宣伝した。1年後、「有効な濃霧号笛」を自慢としていた。実際、CGTの1876年のAmeriqueは、 大西洋航路(そしておそらく世界)に就航した最初の電気照明の汽船であった。幸運に恵まれ、1879年にこの会社は、マルセイユ、アル ジェリア、チュニス間の政府郵便契約を得たのだった。

 1891年までにCGTの好況は、9,047トンのLa Touraineに反映された。(平均速力19ノットの)5番目に大きな船であり、快適で料理が優れていることで有名であった。フランスは直ぐにその好印象に乗じたのであ る。1895年までにCGTは1年を通して毎週日曜日にル・アーブルからニューヨークかどこかに船を出すと宣伝したものだった。

 金になる政府郵便契約は、この高く評価された船の代替にいずれもより大型のより高速の船を要求したのである。そして1899年から 1900年に、La LorraineとLa Savoieが現れた。それぞれ11,100トンで、それぞれ20ノットの能力があった。しかしこの2隻の船はサン・ナゼールの造船所で建造されたものであるものの、会社 の取締役は5000人の労働者を擁するこうした設備を負担となるものと考えたのだった。それゆえ、1900年に民間人に売却された。

 新しい、拡張を求める、前進的な経営が1904年に引き継がれ、1905年から1911年の間に17隻の船の建造に拍車がかかった。 こうしたものの中で最も重要なものは、1906年に竣工した13,700トンのLa Provenceであり、船舶の最高速力の23ノットを試運転で出して引き渡された。ニューヨークにちょうど6日間と少しで到着したのである。しかし直ぐにより大きなLa Picardieが就航した。重さ(注、総トン数の誤り)23,600トン、4本煙突をつけたもので、大西洋横断の最高の象徴であり、そ の推進力、名声でCGTの初期の50年間の最高のものであった。しかし1910年の晩夏にサン・ナゼールの船台を滑り降りた時、船名は変 えられたのだった。Franceと命名され、究極の国家的象徴となり、フランスの正に洋上宮殿として、これまでに建造された最も目を見晴 らせるような遠洋定期船が就航したのである。

(この章に登場する船)
Washington
La Chamgane
La Touraine
La Savoie
Rochambeau
Lafayette/Mexique
Leopoldina/Suffren
Flandre (1914)
France (1912)

2、大きさ、豪華さ、そして船型

 新しいFrench Lineの最初で最後の4本煙突のフラグシップのために、最初の鋼鈑がサン・ナゼールに敷かれて新しい世紀の最初の10年は終わりになった。この10年間の大西洋横断旅客 海運では前代未聞の変化が見られたものだった。事業はにわかに景気づいていたのである。1907年だけで1万2000人の3等船客が毎 日、イェーテボリ、アントワープ、ハンブルグ、リバプール、ナポリ、Fiumeといったところからニューヨーク港に到着していた。また定 期運航の1等、2等の乗客も増加していたのである。最も豪華な1等旅客設備の戦いは、かってなく熾烈なものとなっていた。どの汽船会社も 占有率を、つまり大変儲かる占有率を獲得したがっていたのである。

 急速に技術が発展した10年間であった。1900年にはHamburg-America Lineの16,500トン、22ノットのDeutschlandは、最高速の船であったばかりではなく、最大の船の一つであった。1910年までに最初の50,000ト ンの別のHamburg-Americaの船、すなわちImperatorの計画が立てられたのだった。その時までにCunardの Mauretaniaは、26ノット以上の記録を作ってBlue Ribband(速力)優勝者としての地位を固めていた。Lusitaniaと共に、Cunardは3隻目のより大型の45,000トンのAquitaniaを計画してい た。Cunardと互角の競争相手、White Star Lineは、3隻の馬鹿でかい船を保有していた。46,000トンの姉妹OlympicとTitanic、そして48,000トンのGiganticであり、この船は直ぐ にBritannicとなった。フランスはFranceで対抗した。23,000トンのずっと小型の船であったが、それでもエドワード朝 感覚の超定期船(スーパーライナー)としてみなされていた。そびえたつマストにはフランス国旗が堂々とたなびき、不沈のTitanicが 西大西洋の底に沈んだ直後の、1912年春に就航した。

 しかし後援者であり、触媒であり、更には扇情者でもあったフランス政府は、それ以上のものを欲していた。国家的威信は重要なものであ り、「フランスの栄光」はどこよりも最も重要な北大西洋において、堂々と示さなければならなかったのである。フランスは、旅客船最高の選 り抜きのクラブにおいて、英国やドイツに加わりたかったのだった。パリの大臣たちは、4隻の大型定期船、恐らくは4年間に亘り1隻ずつは 必要となる新しい郵便助成金協定を作成したのだった。

 フランスの次の段階は、34,500トンのParisであり、1913年に建造が始まったが、戦争が始まったため1年後に中断され た。1916年にひっそりと進水したが、その後、戦闘継続中のため未完成の船体は人里はなれた停泊地に送られたのだった。1921年の 夏、遂に姿を現したとき、フランス人はそれ以上喜ぶことは出来なかったのだった。素晴らしい速力、圧倒的だが端正な姿ではあったが、大西 洋に仲間がいなかったのだった。それにこれ以上に投資した船は殆ど無かった。豪勢な1等船室は人気を呼び、毎年Parisは全ての大手客 船会社の中で最も少ない空席率で、大西洋を横断していた。

 しかし、1920年代に遠洋航海の人気が並になると、多くの人は大型で尊大な、豪華さで溢れた時代は終わったと宣言したものだった。 学者によれば、25,000トンかそれ以下の小型船が将来の船だとされた。しかしFrench Lineの取締役はこれに同意せず、更に呆然とさせるような贅沢な船の計画を明らかにしたのだった。43,000トンのIle de France(=昔のフランスの政治の中心をなしていた州の名前)である。革新的で、粋で、流行を取り入れたもので、豪華な外観で、そしてもちろん食道楽を抜群に喜ばすよ うなもので、恐らくCGTに保有されていた定期船の中で、最も成功し、最も愛された船であった。

(この章に登場する船)
Paris
Ile de France

3、他の船舶、他の航路

 フランスの定期船の中で、その20隻と30隻は、次の3隻の船によって支配されていたようだった。洒落たParis、革新的なIle de France、そして最も目立ち、例外的なNormandieである。現代の郷愁的な古物市場において最も高値が付いているのが、Noramndieのポスターで、最近1 万4,000ドルで売られていた。Parisの20インチの模型が800ドルで、Ile de Franceの白黒絵葉書12枚のセットが200ドルであった。更に、ビデオ会社が大西洋定期船の運航に関する記録番組を制作している。しかしフランスに対する関心は殆ど ない。つまり、「NormandieやIle de Franceについては関心が向けることがあっても、他のものには全く関心を示していないのだ!」

 French Lineと他のフランスの旅客会社は、1920年から1940年までの間に、多くの印象的な、興味深い船を建造していた。CGTのDe Grasse (1924年)は、ニューヨークに向けて航海していただけではなく、クルーズ船として西インド諸島へも航海していた。Colombie (1931年)は、専ら植民地のカリブ海(=西インド諸島)に狙いを定めていた。CGTはまた、マルセイユから出る北アフリカ航路向けに 船舶を追加していた。

 呆然とさせるような1927年のIle de Franceに引き続き、この会社はニューヨーク行きの定期船に2つの大変に良好な船室を増設したのだった。1930年には25,000トンのLafayetteに、それ から2年後には28,000トンのChamplainである。後者は新しい外観の船で、明らかにCGTが30年代半ばに計画していた超定 期船の進んだ設計の前触れとなるものであった。LafayetteとChmaplainの両船とも、フランスそれ自体の印象を向上させる べく、より良い優秀な船を建造しようと政府が契約したものでもあった。

 マルセイユに本拠を置いていたMessageries Maritimesは、フランスの「第二の」旅客船隊であった。その船は次のような名前のものだった。Aramis、Explorateur Grandidier、 Fontainebleau、Jean La Borde、そしてSphinxであり、概して植民地航路に就航していた。インドシナ、モーリシャス、南太平洋の仏領諸島である。また極東、インド、オーストラリア、そし て中東にも足を伸ばしていた。そこの素敵なポスターの芸術は、異国的なものを漂わせていた。サイゴンの月明かりの定期船、陽光を浴びてス エズを通過するさま、インド洋の浜辺沖に錨泊する船。Messageries Maritimesの旅客船は、しばしば優雅なものとされたが、外観が変わっていることでも知られていた。例えば動力定期船のFelix Rousselは、大変背が低い四角い2基の煙突を持っていた。

 Compagnie de Navigation Sud-Atlantiqueは、ボルドーから南太平洋を横切って南アフリカの東沿岸の港を結ぶ、豪華な運航を経営していた。また30年代の最も目を見張るような定期船の 一つで、今では殆ど忘れられてしまった42,000トンのL'Atlantiqueも就航させていた。Chargeurs ReunisやTransports Maritimesのような他の客船会社も、南アフリカを結んでいた。殆どがアフリカの植民地の港湾で、Fabre、Fraissinet、Mixte、Paquetが就 航していた。こうした会社の船のほぼ全てが(あるいは北米中の支店やル・アーブルから出る鉄道により)French Lineと連絡していた。

(この章に登場する船)
De Grasse (1924)
Lafayette (1929)
Champlain
Colombie
Felix Roussel
Marrakech
L'Atlantique
Pasteur

4、非凡な商船:Normandie

 1935年6月3日は、疑いもなくニューヨーク港にとって偉大な日であった。曳船、ヨット、フェリー、遊覧船、そして歓迎放水をして いる消防艇が、大挙して海に出ていた。上空には特別に貸切った飛行機が飛び、飛行船が浮かび、艀の上には巨大なミッキーマウスまでもが 乗っていた。旗がたなびき、汽笛が鳴り、警報が鳴り渡り、群集は喝采し拍手し、時に涙ぐんでさえもいた。不景気の真っ只中ではあったが、 「偉大なる陽光」とある記者が叫んだ船は、予定より2年遅れではあったが、フランスからやって来た。全時代を通じて、最も目を見張らせる 定期船と言われている6,000万ドル(1996年現在で6億ドル以上)のNormandieは、処女航海で当地にやって来たのだった。 塗りたてのペンキと旗を纏って輝きながら、新しいBlue Ribbandの優勝者としての長い旗をもたなびかせていた。処女横断航海で、イタリアのRexの記録を破ったのだった。幸運な、そして興奮していた乗客の中には、フラン スのファースト・レディーのMme. Lebrunがいた。この船のために市当局が特別に建造した第88埠頭に接岸してしばらくしてから、最初の乗客と訪船者、新聞記者は岸に戻ってきて、満場一致でこう絶賛し たものだった。本船は全時代を通じて最も目を見張らせる定期船だ!

 もちろん、本船はフランスにとって巨大な歩み(そして大きな賭け)であった。こんなに巨大な船を建造したことはなかったのだった(6 万トン、全長1,000フィートを超える正に最初の船であった)。更に優れた推進力を有していた(Blue Ribbandの勝者にならなければならなかった)。長さにおいて、前のフラグシップであるIle de Franceの約2倍であった。

 しかし記録破りの、評判の高い、「フランスの最高の象徴」であるNormandieは、決してその壮大な期待を実現することはなかっ た。財政的に失敗し、収容力の60パーセント以上を乗せて航海したことは殆ど無かった。更に世界の事件は、この長期に亘って輝かしい船と なるべき船を劇的に短命なものとしたのである。1939年、Hitlarの軍隊はポーランドに進撃した。Normandieはニューヨー ク港に放置され、僅か4年間の商用航海をしただけで、2度と航海をすることはなかったのだった。その後、炎上して転覆し、ゴミの山となっ て生涯を閉じたのである。最後の区画が岸のほうを向いて沈んだ時、この魔法のようなNormandieは、僅かに船齢12年だった。

(この章に登場する船)
Normandie

5、修理、修復、復活

 第二次世界大戦はFrench Lineを叩きのめした。30隻からなる偉大な船隊は修羅場と化し、その大半が破壊された。LafayetteとParisは、戦争が始まる前に沈没した。 Champlainは、フランスが降伏した直後に沈没した。更に最悪なことに、素晴らしいNormandieはニューヨークで停泊中に炎 上し、後にアメリカ人によってスクラップになったのである。やや小型のDe Grasseでさえも全損であった。1944年夏に沈没したが、その正確に1年後に引揚げられた。

 複雑なパズルを組み合わせて、CGTのParisの事務所は、1945年に平和が訪れた最初の夏に旅客船隊の再編成を行うべく始まっ た。勇ましく誇らしげなIle de Franceは、生き残った船の中で最大のものであった(しかし実際には1949年まで完全修理はされなかった。)。それからColombieはIleのように、連合国側 の手中にあった。しかしこの船も恐らく2年かそれ以上かかる広範な修理が必要であった。サン・ナゼールの造船所は、解放後しばらくは人的 資源や資材が不足していた。贔屓目に見ても、その努力は緩慢なものであった。実際のところ、アメリカの設備や支援物資がサン・ナゼールや 激しく爆撃されたル・アーブルに大急ぎで投入されたのだった。

 実際のCGTの大西洋横断運航の再開は、一時的なものだった。1945年5月、VE Day (=ヨーロッパ戦勝記念日)の直ぐ後、7,706トンの貨客船Oregonが、ニューヨークからル・アーブルに向けて出港した。本船は元々、ル・アーブルからパナマ経由で 北米太平洋沿岸向けに航海すべく1929年に建造されたもので、1等客をたったの38人しか乗せないものであったが、船室の定員を倍増さ せて76人に拡張した。6月の下旬に航海を再開し、「合衆国が1941年12月に参戦して以来、ニューヨークから出港して就航した最初の 旅客船」と言われている。姉妹船はWiscousinで、同様の航海を1946年に行った。

 Messageries Maritimesの3隻の戦時旅客船、すなわちMarechal Joffre、Inodochinois、Athos IIもニューヨーク運航を支えた。Ile de Franceが英国側に1946年2月に取り戻され、サウサンプトン、シェルブール(ル・アーブルは未だに壊滅的な損害を受けていた)、ハリファックス、ボストン間で一連 の質素な運航を開始した。その後、1946年10月にシェルブールからニューヨークに航海した時には、1,689人の乗客の加えて帰還兵 を輸送したものだった。本船の優先客であってさえも、6人か7人の相部屋で過ごさなければならなかった。1947年の春に遂に解放され て、サン・ナゼールに向かい、長らく遅れて修理・再建し、刷新した。多くの変更があった中で、CGTの設計者は元の3本煙突を1本に減ら して近代化した。

 Colombieもニューヨークへの質素な航海を何回か行った。そのうち一度は、賠償品や支援品としてFrench Lineに与えられた19隻のLiberty Ships(=自由の船)の引渡を受けるために合衆国に向かう何百人ものフランス人船員を乗せていた。遂にDe Grasseが公式商用運航を再開すべく出発した。本船は1947年7月にル・アーブル―ニューヨーク間の運航を再開するに先立ち、サン・ナゼールで2年間を過ごしてい た。2等級で旅客定員を720人にまで大幅に減らし、新しい1本煙突を見せびらかし、1隻だけでFrench Lineを2年間維持したものだった。De Grasseが、NormandieやIle de France、Paris、ChamplainやLafayetteと一緒に航海した戦前の輝かしいた時代とは、何と対照的なことであったろうか。

(この章に登場する船)
Oregon
De Grasse
Colombie
Ile de France

6、華麗なる戦勝品:Liberte

 1945年に戦争が終わった時、1930年代の偉大なる大西洋横断超定期船隊は、半分以下になっていた。Normandie、 Bremen、Empress of Britain、Rex、Conte di Savoiaは、この世のものではなかった。老朽化したAquitaniaは、商用運航に再就航できるようには見えなかった。かくして3隻の最大の定期船として、 Queen Elizabeth、Queen Mary、そして全く無視され、全く荒れ果てていたEuropaが残されたのだった。

 戦前のドイツの記録破り(1930年から1933年までBlue Ribbandを保持していた)は、1939年の晩夏以来、ブレマーハーフェンに係船されていた。本船は、計画されていたナチによる英国侵略のために大型の上陸用舟艇に改 造されることとなっていて、その後、航空母艦とされることとなっていた。しかしいずれも実現しなかった。1945年5月に米国の侵攻部隊 がブレーメンに到着するや、第3位の大型定期船が浮いていることが発見されたのだった。直ぐに米軍に徴用され、応急修理をして兵員輸送船 USS Europaとなった。多くはGIを乗せて北大西洋を横断する航海を何回かした後、深刻な問題があることが判ったのだった。いつも小さな火災が起きていたのである。米国政 府は直ぐに興味を失い、4年前にNormandieを失って適当な修理を必要としていたフランスに寄付したのだった。Liberte(= 自由)という相応しい名前に再命名されて、本船はFrench Lineの最も人気のある成功した船となった。

(この章に登場する船)
Liberte

7、洒落た新姉妹:FlandreとAntilles

 戦争で船隊は酷く激減した。French Lineの取締役らは最終的には新しい旅客船の建造を考え始めた。しかしその考えというは極めて保守的なもので、抑制されたものでさえもあった。財政上の問題もあったが、 飛行機の前では霞んでしまうものだった。更に、フランスは既に2隻の大型定期船である復帰したIle de Franceと刷新したLiberteを持っており、2隻のCunardのQueensや、Mauretania、America、Nieuew Amsterdamと肩を並べるものであった。その後現れた唯一の超定期船は、速いUnited Statesであった。2隻のニューヨーク航路のフランス定期船を小型の古い第3船のDe Grasseが支えた。第3船は未だに航海時間が、とりわけ夏の繁忙期において1週間もかかる代物であった。

 しかし20,000トンの姉妹船の設計が完成した時、ル・アーブルと西インド諸島間の航路に就くこととなった。そのうちの1隻は、戦 前のColombieであり、1950年代初期に1隻で運航していた。同じく同時期、Italian Lineの戦後の初めての定期船AugastusとGiulio Cesareは、外見上重要に見えたニューヨーク航路よりは、むしろイタリアと南米間の航路に就航していた。しかし新しいフランスの定期船の1番船であるFlandre は、完成が近づくにつれて計画を変更した。少なくとも半年はニューヨーク航路に就航し、一方老兵のDe Grasseは引退するものとされた。2番船のAntillesは、Colormbieと共にカリブ海で終始運航するものとされていた。Colormbieの引退の計画 は、同様に変更された。

 過去のFrench Lineの汽船の船室のように、穏やかで分別のある現代的な外観の船で、先の細くなった煙突、操舵室区画の上にはマストがあり、船首は後方に傾斜し、伝統的な帆げたやキン グ・ポスト(=デリック支柱)に代わって電動クレーンを備えていた。Flandreは、後に船主が数回変わったが、北の航海では船体は黒 であった。一方Antillesは真っ白で、熱帯で使用された。いずれも有名な、好かれた船であった。しかし両船の終焉は、French Lineや他のフランス建造の船と同じであった。火災である。実際、1995年の最近になって、Flaudreの傷ついてずたずたになっ た燃え残りが、トルコの船舶解体業者によって切断されたのだった。

(この章に登場する船)
Flandre (1952)
Antilles
De Grasse (1956)

8、その他のフランス船

 50年代の旅行業界の月刊バイブル(=経典)であったOfficial Steamship and Airways Guide(=公式汽船航空機案内)のイエローページには、約12社のフランス旅客船会社が掲載されている。こうした会社が世界を結んでいた。ニューヨークのFrench Lineや、ローアー・マンハッタンのバッテリー・パークの直ぐ前や、ロックフェラー・センターのマジソン・フランセーズにあったその他 の会社の事務所の隅や奥の部屋には、こうした会社や馴染みのない船のパンフレットや航海予定、運賃表の棚があったものだった。

 Messageries Maritimesは、未だにフランス国旗の下にある第二の会社であった。殆ど新しい船隊を有し、大抵は戦後の50年代初期に建造された貨客船との組合せであった。パリを 経由してル・アーブルと連絡するもので、全ての船はマルセイユから出ていた。「3隻のマスケット銃兵」であるCambodge、 Laos、Viet-Namが極東と結び、姉妹船のCaledonienとTahitienが南太平洋とオーストラリア、La Bourdonnais級の4隻の姉妹船が、モーリシャスとを結んでいた。

 Chargeurs ReunisとCompagnie de Navigation Sud-Atlantiqueは、南米の東海岸に新しいコンボ・ライナーを就航させていた。Chargeurs Reunisはまた、ボルドーとフランス西部、赤道アフリカとの間に旅客定期船を運航していた。Transports Maritimesは、フランスの戦後最大の定期船を2隻保有していた。BretagneとProvenceであり、地中海と南米を結んでいた。またフランスの船隊は、マ ルセイユやニースから出て西地中海を横断する独自の貿易をしているようであった。French Lineの旅客船は、コルシカ島や北アフリカに行った。他の会社には、Compagnie de Navigation Fraissinet et Cyprien Fabre、Compagnie de Navigation Mixte、Compagnie de Navigation Paquet等があった。

 最終的には長距離運航は、全て航空機に取って代わられることが避けられなかった。しかし乗客が飛行機に乗る一方で、儲かる貨物船や、 更に大型で速く効率の良いコンテナ船が走るようになったのである。最後のMessageries Maritimesの旅客航海は、ブエノスアイレス、リオ・デ・ジャネイロからル・アーブルへの、1972年夏のPasteurの航海であった。

 Messageries Maritimesそれ自体は、後にCGTと合併してCGM、すなわちCompagnie Generale Maritimeとなった。北アフリカの船舶は、長い時間をかけて新世代の旅客と乗用車を輸送するフェリーと代替してきた。しかし郷愁の航路は存在している。あるフェリー は19,000トンの船で、Liberteと命名されている。1,600人以上の乗客と500台の乗用車を乗せて、マルセイユと北アフリ カとを結んでいるのである。

(この章に登場する船)
La Marseillaise
Champollion
Laos
Ferdinand de Lesseps
Claude Bernard
Pasteur
Ville D'Oran
Sampiero Corso
Kairouan
Mermoz

9、定期船の終焉:1961年のFrance

 物憂い、むしろ寒い冬の午後であったが、ニューヨーク港は期待と興奮で包まれていた。日付は1962年2月9日である。不幸なこと に、これは当港の主要な船舶となった最後のお祭りの受付であった。曳船、消防艇、貸切の船の船隊に護衛されて、真新しいFranceは、 第88埠頭の北側のバースに堂々と向かって来た。大変に減速して、敬意を払われれる前任者である、22年前に初めてやって来た Normandieの進路を進んだ。全ての汽笛や警笛、警報が、建造に4年以上かかった待ち焦がれていた8,000ドル(1996年の4 億ドル)のフラグシップを祝福した。

 50年代半ばまでに、French Lineは大きな悩みを抱えていた。Ile de FranceとLiberteは老朽化していた。実際、Ileは1958年までに、あと数年内に引退することとなっていた。簡単に言えば、1年前には1939年建造の Pasteurを持って行くことが考えれていて、その後インドシナへの兵員輸送船から解放し、代船として北大西洋で使用することが終わり になった。その後、35,000トンの姉妹船の話があった。それから、より事態を複雑にするかのように、別の老朽船であるQueen Maryの代船である75,000トンの超定期船の可能性に関する噂がリバプールからイギリス海峡を渡って来たのだった。あるいはアメリカがしばしば噂されていた速さの勝 者、United Statesの姉妹船を建造する決定を遂にしたとか。またフランスは、遂にアルジェリアという植民地から撤退することになる政治騒動に巻き込まれていた。

 政府は、とりわけde Gaulle大統領は、新しいフランスの超定期船が気分を高揚させるかもしれないと考えた。Normandie等のように、本船は士気を高め、飾り物となる、フランスの装 飾と技術的な輝きを放つ、気絶させるような陳列ケースとされたのであった。更に本船は、ますますだらしなくなっていた英国の2隻の Queensに対する直接的な挑戦とされたのである。更に、こんなに大型の定期船は、Ile de FranceとLiberteの2隻を1隻で代替し得るものであった。かくして1957年9月にサン・ナゼールに鋼鈑が発注され、作業が開始されたのであった。

 ちょうど1957年には、航空機の輸送量が大西洋横断定期旅客船の輸送量と等しくなっていた。1年後、最初のジェット機が、ロンドン とパリとの間を飛んだのだった。1959年までに、航空会社は大西洋を横断する客の3分の2を得ていた。もちろん後知恵になることだが、 Franceのような大型で高価な船舶を建造するのは、愚かなことであることは明白であった。

 たとえ実際的な選択肢として閑散期のクルーズがあるとしても、船体の計画や設計において殆ど考慮されていなかった。実際にCGTは、 Franceを、年の大半を大西洋横断運航をして過ごす最後の一流の遠洋定期船になるかも知れないと、誇らしげに自慢していたのである。 60年代初期までに、あの大したQueen Elizabethであってさえも、1月の横断では200人の乗客も輸送していないことが知られていたのである。しかしフランス人は固執していた。

 実際には、Franceは最後まで大変な人気を維持していた。稼働率が90パーセントを下回ることは殆どなかった。また実際、予想以 上にクルーズもしたのである。しかし本船の経済は、運航当初より(ツーリスト・クラスの本当に最後の寝台まで埋まった時であってさえも) 政府の助成金に頼ったものであった。最後の時は、1974年にニューヨークからの晩夏の横断を終えた後、突然にやって来た。本船のパリの 後援者が、新しいConcordeに対して忠誠を誓うことに切り替えたのである。本船へのフランの注入は、即座になくなってしまった。今 や英国のQE2だけが残ることとなったのである。

 Franceがル・アーブルに居座っていた間、仕事もなく薄暗く、買い手の一行がやって来ては離れて行った。新聞によると、スクラッ プになるかも知れないとさえ言われたものである。しかし遂にマイアミに本拠を置くオスロが所有するNorwegian Caribbean Linesが、陽光溢れるカリブ海で熱帯クルーズ船として将来使えると感じたのだった。西ドイツの造船所に曳航され、この恐らくは最も念入りに作られた大きな定期船が改造 されたのである。Franceの内部は変えられ、表向きはNorwayとなった。この偉大なるフランス最後の定期船は、今日まで南方海域 で、首尾良く運航しているのである。

(この章に登場する船)
France (1961)

Information

*文字化けを避けるため、英語の文字で代用している個所があります。