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21世紀の青函連絡船 ―ナッチャンRera―

石山 剛

1、インキャット最大のフェリー

 2007年8月17日午後2時、「ナッチャンRera」はオーストラリアからの長旅を終えて、船籍港の函館に初めて入港した。日本初 のインキャット製の高速双胴船であり、オーストラリアで建造された史上最大のウェーブ・ピアサーだ。

 8月23日に函館で来賓や報道関係者向けの内覧会が催され、その後、数回の体験航海で約4900人の一般市民を乗せた後、9月1日に 函館―青森航路に正式に就航した。快晴の空の下、午前7時30分に函館を出発した第一便には463人の乗客が乗船し、午前9時15分に、 青森に無事到着した。在来船が約4時間かけていた津軽海峡横断を、約2時間にするものであり、乗船客の評判は上々であった。

 インキャットの設計では1500人まで乗船させることが可能であるのに対し、「ナッチャンRera」は、快適に過ごせるよう定員を 774人に押さえている。船室は、エグゼクティブ・クラス(58席、10000円)、ビジネス・クラス(112席、6000円)、エコノ ミー・クラス(568席、5000円)の3つの等級に分かれている。座席と窓の間に通路を設けて、より多くの乗客が景色を楽しめるように しているのが特徴的だ。また、カフェ、バー、売店、キッズルーム、シャワー室、トイレ等も備えている。

 車輌甲板は、乗用車のみの場合は353台、またはトラック33台と乗用車193台も積載可能。この長さ112mの船には、マン製 20V 28/33D ディーゼル・エンジンが4基搭載されており、北海道という北部の島と、日本の本島である本州を隔てる津軽海峡を、最大40ノットの速力で横断する。

 この船の「ナッチャン」という名前は、フェリーの意匠を選択するために行われた図案の競技会の勝者である、京都市在住の女生徒、川嶋 なつみ(7)の愛称から取ったものであり、「Rera」とはアイヌ語で、「風」を意味する。アイヌは北海道の先住民族である。

2、東日本フェリー

 運航する東日本フェリーは、1965年3月に、函館の道南海運と青森の青道フェリーが共同して、函館に設立したフェリー会社。初代社 長は蔦井与三吉(つたい・よそきち)氏で、北海道と利尻島・礼文島を結ぶフェリーを運航する稚内利礼運輸(後の東日本海フェリー、現在の ハートランド・フェリー)の社長でもあった。1965年6月に函館―大間航路を開設して、東日本フェリーは順調に成長した。1974年、 蔦井政信(つたい・まさのぶ)氏が2代目社長に就任し、翌年、本店を北海道の首都である札幌市に移転した。

 1988年3月、世界最長の海底トンネルである「青函トンネル」が津軽海峡に完成し、JRが運航していた鉄道連絡船、「青函連絡船」 が廃止された。東日本フェリーは、この青函航路に集中し、更に発展した。最盛期には11航路に船舶22隻を運航し、売上高は392億円に 上った(1997年)。文字通り、日本を代表するフェリー会社の1つになっていた。

 しかしホテル部門(ホテル・イースト・ジャパン、苫小牧)、レジャー部門(板谷観光開発、米沢)の事業収益が伸び悩み、景気の低迷に よる貨物輸送の減少にも東日本フェリーは直面することを余儀なくされた。とりわけ、日本の南部の九州という島にある福岡市に1991年に 設立した子会社、九越フェリーが、東日本フェリーの大きな負担となった。九越フェリーは「れいんぼう らぶ(現、韓国のWeidong FerryのNew Golden Bridge V)」と「れいんぼう べる(現、ギリシャのHellenic SeawaysのAriadne)」という2隻の72億円の豪華フェリーを使って、博多(福岡)と本州の直江津、そして北海道の室蘭を結ぶ日本海航路(901km + 678km)を経営していたが、利益を生み出すことは決してなかった。この日本海航路が、東日本フェリーの命を奪うこととなった。

 2003年6月29日、東日本フェリーと九越フェリーを含む関連会社3社は、東京地方裁判所に会社更生法の適用申請を行った。負債総 額は約907億円。当初は常石造船グループの神原汽船が支援を申し出たが、2004年7月に辞退した。代わって広島市に近い呉に本拠を置 く海運会社リベラが、東日本フェリーの支援を表明し、2005年8月1日に、リベラが東日本フェリー、九越フェリー等を吸収合併した。そ して2006年10月1日、リベラは新たに「東日本フェリー」という会社を函館に設立した。従って、従来の東日本フェリーと現在の東日本 フェリーとは、法律的には別個の会社である。現在、東日本フェリーは、函館―大間航路(40km)、函館―青森航路(113km)、青森 ―室蘭航路(204km)の3航路を経営し、再建途上にある。

3、ナンチャンRera

 東日本フェリー社長の古閑信二(こが・しんじ)氏は、「フェリー事業は斜陽産業である」と描写した上で、ある日本のフェリー雑誌に、 次のように語っている。

 「フェリーは斜陽であるが故に、高速化という付加価値を与えて新たな旅客需要を作りださなければならない。東日本フェリーの再建の鍵 はこれしかない、と私は信じています。」

 しかし東日本フェリーは、過去に2度、青函航路で高速船を運航していたことがあった。ジェット・フォイルの「ゆにこん」 (163gt、1990年11月~1996年11月)、と高速フェリーの「ゆにこん」(1498gt、1997年6月~2000年9月) だ。いずれの船も、冬の荒天時に欠航が多く、利益を生み出さなかった。こうした失敗の経験から、津軽海峡には高速船は不向きであると一般 には言われていた。

 東日本フェリーは、大阪府立大学の池田良穂(いけだ・よしほ)教授に助言を求め、更にはヨーロッパのフェリーを視察した。合衆国のオ ンライン・ニュースサイト、Marine Logで、古閑氏は次のように話している。

 「弊社では2005年秋にヨーロッパに出張調査をして高速フェリーに自信を持ちました。この視察で弊社では、インキャットのデンマー クのMols-Linienが運航していた91mのフェリーと、Brittany Ferriesがイギリス海峡で運航していた98mのフェリーに感銘を受けたのです。函館と青森間の航路に、高速フェリーを投入することを確信したのでした。」

 「数社の造船所から集中的に弊社に対して交渉がございましたが、躊躇することなく、インキャットを指名いたしました。」

 2006年5月29日、東日本フェリーは高速船2隻の発注を発表した。建造費は、両船で160億円と報じられた。そして2006年暮 れから、函館では30億円かけて新ターミナル・ビルの建設工事が始まった。この近代的なターミナル・ビルは、2007年8月1日に開所し た。一方、青森でも可動橋が整備され、新ターミナル・ビルの建設が検討されている。東日本フェリーの経営陣は、津軽海峡をドーバー海峡の ようにしようとしているように思われる。

 2007年9月1日、第1船の「ナッチャンRera」が就航した。9月の運航実績は、旅客が40640人、乗用車7559台、トラッ ク1874台、バス95台、自動二輪車585台であって、期待されていたものよりは少ないものだった。しかし旅客数は倍増しており、とり わけ観光客の伸びが注目されている。2008年6月には、現在、タスマニアで建造中の第2船が就航する見込みだ。

 東日本フェリーは、この冬の運航状況を見て、2008年2月に3隻目を発注するかどうかを決断すると話している。この第3船は、青森 ―室蘭航路に就航することになるかもしれない。

 一方、JRは、青函トンネルを使って、2015年に弾丸列車(北海道新幹線)を開業する予定だ。このことは、東日本フェリーとJR、 そして格安航空会社間との間で、ドーバー海峡で繰り広げられているような戦争が始まることを意味する。

 このように、「ナッチャンRera」の将来は、決してバラ色ではない。しかし私は、船舶愛好家の1人として、東日本フェリーの勝利を 信じている。

以上

Information

 本稿は、2007年12月にドイツの雑誌「Ferries」に発表した記事の日本語の草稿です (NATCHAN RERA "Seikan Renrakusen" des 21. Jahrhunderts, FERRIES, December 2007(Duetscher Fahrschiffahrtsverein e. V.、2007)。

 この「ナッチャンRera」の運航は残念ながら失敗に終わり、2008年11月に係船。2012年10月に台湾のUni- Marine Wagon/CSFに売却。「麗娜輪」に改名して、台中―平漂(中国本土)航路に就航する予定だったものの、2013年8 月より花蓮―蘇澳で試験運航。その後、2014年5月に台北―平漂(中国本土)航路に就航しています。

 記事の内容が古くなってはいますが、記録として、ここに掲載することにしました。