海外旅行事始
現在では、海外旅行といえば航空機を利用するのが原則であり、船に乗って外国に行くことは例外的なことにな
っている。しかし、航空機が広く利用されるようになったのは、この数十年来のことであり、かっては舶来品とか、洋
行という言葉があったように、海外へは船舶を利用するのが、例外のない原則であった。
日本人の海外旅行、それも西洋旅行のさきがけとしては、天正少年使節(1582年)を挙げることもできるが、その
後日本は長い鎖国の時代を迎えたことから、日本人の西洋旅行事始としては、咸臨丸による太平洋横断を挙げる
のが適当だと思う。
咸臨丸は、江戸幕府が安政4年(1857年)にオランダに建造させた軍艦であり、300トン程の木造船である。万延
元年(1860年)、日米修好通商条約の批准のため、外国奉行新見正興らの遣米使節の随行艦として、日本人が操
船して初めて太平洋の横断に成功した。今風にいえば、日本人がスペースシャトルを操縦して初めて月に行って来
たような事件といって良いのかも知れない。
では、そのときの船旅の様子はどんな感じであったろうか。こうした話はやはり体験した人に語ってもらうのが一
番だと思う。そこで、咸臨丸に乗船していた福澤諭吉に再び登場していただいて、当時の様子を語っていただくこ
とにする。なお、読み易さを重視して、表記は適宜現代風に改めている。
* Kanrinmaru is a sailboat that the Japanese went across the Pacific Ocean by themselves for the first time.
「ソレカラ私が江戸に来た翌年、即ち安政6年冬、徳川政府からアメリカに軍艦を遣るという、日本開闢以来未曾
有の事を決断しました。さて、その軍艦と申しても、至極小さなもので、蒸気は百馬力、ヒュルプマシーネと申して、
港の出入りに蒸気を焚くばかり、航海中は唯風を便りに運転せねばならぬ。2、3年前オランダから買入れ、価は
小判で2万5千両、船の名を咸臨丸という。その前、安政2年の頃から幕府の人が長崎に行って、蘭人に航海術を
伝授してその技術もしばらく進歩したから、このたび使節がワシントンに行くに付き、日本の軍艦もサンフランシス
コまで航海と、こういう訳で幕議一決、艦長は時の軍艦奉行木村摂津守、これに随従する指揮官は勝麟太郎、運
用方は佐々倉桐太郎、浜口興右衛門、鈴藤勇次郎、測量は小野友五郎、伴鉄太郎、松岡磐吉、蒸気は肥田浜五
郎、山本金次郎、公用方には吉岡勇平、小永井五八郎、通弁官は中浜万次郎、少年士官には根津欽次郎、赤松
大三郎、岡田井蔵、小杉雅之進と、医師2人、水夫火夫65人、艦長の従者を併せて96人。船の割にしては多勢の
乗組人でありしが、この航海の事については色々お話がある。」
慶應義塾開塾記念碑(現在の聖路加国際病院の辺りに中津藩奥平家の中屋敷があった。東京都中央区築地。)
「艦長木村摂津守という人は、軍艦奉行の職を奉じて海軍の長上官であるから、身分相当に従者を連れて行くに
違いない。それから私は、どうもその船に乗ってアメリカに行ってみたい志はあるけれども、木村という人は一向知
らない。去年大坂から出てきたばかりで、そんな幕府の役人などに縁がある訳ではない。ところが幸いに、江戸に
桂川という幕府の蘭家の侍医がある。その家は、日本国中蘭学医の総本山とでも名をつけて宜しい名家であるか
ら、江戸はさておき、日本国中蘭学社会の人で、桂川という名前を知らない者はない。ソレ故、私なども江戸に来
れば、何はさておき、桂川の家には訪問するので、度々その家に出入りしておる。その桂川の家と木村の家とは
親類―ごく近い親類である。それから私は桂川に頼んで、「どうかして木村さんの御供をしてアメリカに行きたいが
紹介して下さることは出来まいか」と懇願して、桂川の手紙を貰って木村の家に行ってその願意を述べたところが
木村では即刻許してくれて、「宜しい連れて行って遣ろう」とこういうことになった。というのは、案ずるにその当時の
世態人情において、外国航海などいえば、開闢以来の珍事というか、寧ろ恐ろしい命懸けの事で、木村は勿論軍
艦奉行であるから家来はある、あるけれどもその家来という者も余り行く気はない所に、仮初にも自分から進んで
行きたいと言うのであるから、実はあちらでも、妙な奴だ、幸いという位なことであったろうと思う。直ぐに許されて
私は御供をすることになった。」
さて、これからが船旅となるが、まず浦賀に行き、それからサンフランシスコ(桑港)に向かったようだ。
「咸臨丸の出帆は万延元年の正月で、品川沖を出て先ず浦賀に行った。同時に、日本からアメリカに使節が立っ
て行くので、アメリカからその使節の迎船が来た。ポーハタンというその軍艦に乗って行くのであるが、そのポーハ
タンは後から来ることになって、咸臨丸は先に出帆して先ず浦賀に泊まった。浦賀に居て面白い事がある。船に乗
組で居る人は皆若い人で、「もう是れが日本の訣別であるから浦賀に上陸して酒を飲もうではないか」と言い出した
者がある。何れも同説で、それから陸に上がって茶屋見たような処に行って、さんざん酒を飲んでサア船に帰ると
いう時に、誠に手癖の悪い話で、その茶屋の廊下の棚の上に嗽茶碗が一つあった、是れは船の中で役立ちそうな
物だと思って、一寸と私がそれを盗んで来た。
その時は冬の事で、サア出帆した所が大嵐、毎日々々の大嵐、なかなか茶碗に飯を盛って本式に食べるなんと
いうことは容易なことではない。所が私の盗んだ嗽茶碗が役に立って、その中に一杯飯を入れて、その上に汁でも
何でも皆掛けて、立って食う。誠に世話のない話で、大層便利を得て、アメリカまで行って、帰りの航海中も毎日用
いて、とうとう日本まで持って帰って、久しく私の家にゴロチャラして居た。程経て聞けば、その浦賀で上陸して飲食
いした処は遊女屋だという。それはその当時私は知らなかったが、そうして見ると、あの大きな茶碗は女郎の嗽茶
碗であったろう。思えば穢ないようだが、航海中は誠に調法、唯一の宝物であったのが可笑しい。」
「さて、それから船が出て、ずっと北の方に乗出した。その咸臨丸というのは、百馬力の船であるから、航海中始
終石炭を焚くということは出来ない。只港を出るとき這入るときに焚くだけで、沖に出ればまるで帆前船、というの
は、石炭が積まれますまい、石炭がなければ帆で行かなければならぬ。その帆前船に乗って太平海を渡るのであ
るのであるから、それはそれは毎日の暴風で、艀船が四艘あったが、激浪のために二艘も取られて仕舞うた。
その時は、私は艦長の家来であるから、艦長のために始終左右の用を弁じて居た。艦長は船の艫の方の部屋
に居るので、或る日、朝起きて、いつもの通り用を弁じませようと思って艫の部屋に行った、所がその部屋に弗(ド
ルラル)が何百枚か何千枚か知れぬ程散乱して居る。如何したのかと思うと、前夜の大嵐で、袋に入れて押入れ
の中に積上げてあった弗、定めし錠も卸してあったに違いないが、はげしい船の動揺で、弗の袋が戸を押破って外
に散乱したものと見える。是れは大変な事と思って、直ぐに引返して舳の方に居る公用方の吉岡勇平にその次第
を告げると、同人も大いに驚き、場所に駆け付け、私も加勢してその弗を拾集めて、袋に入れて元の通り戸棚に入
れたことがあるが、元来船中にこんな事の起こるその次第は、当時外国為替という事に就いて一寸とも考えがない
ので、旅をすれば金が要る、金が要れば金を持って行くという極簡単な話で、何万弗だか知らない弗を、袋などに
入れて艦長の部屋に蔵めて置いたその金が、嵐のために溢れ出たというような奇談を生じたのである。それでも
大抵40年前の事情が分かりましょう。今ならば一向訳はない。為替で一寸と送って遣れば、何も正金を船に積んで
行く必要はないが、商売思想のない昔の武家は大抵こんなものである。
航海中は毎日の嵐で、始終船中に波を打上げる。今でも私は覚えて居るが、甲板の下に居ると、上に四角な窓
があるので、船が傾くと、窓から大洋の立浪が能く見える。それは大層な波で、船体が37、8度傾くということは毎度
の事であった。45度傾くと沈むというけれども、幸いに大きな災いもなく只その航路を進んで行く。進んで行く中に、
何にも見えるものはないその中で以って、一度帆前船に遇うたことがあった。ソレは、アメリカの船で、支那人を乗
せて行くのだというその船を一艘見た切り、外には何も見ない。」
現在、咸臨丸は復元され、瀬戸内海で観光船として使用されているものがある。これは、この船を操船したのが
塩飽諸島の人達であったことに由来している。また、長崎のハウステンボスにも復元された咸臨丸がある。もっとも
これらの咸臨丸には、立派なエンジンがついている。
復元された咸臨丸(kanrin maru)
「海上恙なくサンフランシスコに着いた。着くやいなや土地の重立たる人々は船まで来て祝意を表し、之を歓迎の
始めとして、陸上の見物人は黒山の如し。次いで陸から祝砲を打つということになって、彼方から打てば咸臨丸か
ら応砲せねばならぬと、此事に就て一奇談がある。勝麟太郎という人は艦長木村の次に居て指揮官であるが、至
極船に弱い人で、航海中は病人同様、自分の部屋の外に出ることは出来なかったが、着港になれば指揮官の職
として万端指図する中に、彼の祝砲の事が起こった。所で勝の説に、ソレはとても出来る事ではない、ナマジ応砲
などして遣りそこなうよりも此方は打たぬ方が宜いと言う。そうすると運用方の佐々倉桐太郎は「イヤ打てないこと
はない、おれが打って見せる」「馬鹿言え、貴様達に出来たらおれの首を遣る」と冷やかされて、佐々倉はいよいよ
承知しない。何でも応砲して見せるというので、それから水夫共を指図して大砲の掃除、火薬の用意をして、砂時
計を以って時を計り、物の見事に応砲が出来た。サア佐々倉が威張り出した。「首尾よく出来たから、勝の首はお
れの物だ。しかし航海中、用も多いから暫く彼の首を当人に預けて置く」というて、大いに船中を笑わしたことがあ
る。兎にも角にもマア祝砲だけは立派にできた。
ソコで無事港に着いたらば、サアどうも彼方の人の歓迎というものは、ソレはソレは実に至れり尽せり、此上の仕
様がないという程の歓迎。アメリカ人の身になって見れば、アメリカ人が日本に来て初めて国を開いたというその日
本人がペルリの日本行より八年目に自分の国に航海して来たという訳であるから、丁度自分の学校から出た生徒
が実業に着いて自分と同じ事をすると同様、おれがその端緒を開いたと言わぬばかりの心地であったに違いない
ソコでもう、日本人を掌の上に乗せて、不自由をさせねように不自由をさせねようにとばかり、サンフランシスコに
上陸するや否や馬車を以って迎に来て、取り敢えず市中のホテルに休息というそのホテルには、市中の役人か何
かは知りませぬが、市中の重立った人が雲霞の如く出掛けて来た。様々の接待饗応。
ソレカラ、サンフランシスコの近傍に、メールアイランドというという処に海軍港がある。その海軍港附属の官舎を
咸臨丸一行の止宿舎に貸してくれ、船は航海中なかなか損所が出来たからとて、船渠に入れて修復をしてくれる。
逗留中は勿論彼方で賄も何もそっくりしてくれる筈であるが、水夫を始め日本人が洋食に慣れない、矢張り日本の
飯でなければ食えないというので、自分賄という訳にした所が、アメリカの人は兼ねて日本人の魚類を好むという
ことを能く知って居るので、毎日々々魚を持って来てくれたり、或いは日本人は風呂に這入ることが好きだというの
で、毎日風呂を立ててくれるというような訳け。所でメールアイランドという処は町ではないものですから、折節今日
はサンフランシスコに来いというて誘う。それから船に乗って行くと、ホテルに案内して饗応するというようなことが
毎度ある。」
サンフランシスコのリンカーン公園には、咸臨丸入港記念碑が建てられている。日本がアメリカ、そして英語のお
かげで近代化されたことを考えると、咸臨丸の太平洋横断は単なる日本人の海外旅行事始というよりは、日本の
近代化の原点というべき歴史的事件だったというべきであろう。なお咸臨丸は、北海道木古内町の更木沖で沈没
した。
福澤諭吉記念館(大分県中津市)は、日本船舶振興会補助金等により建設された。
〔参考文献〕
富田正文編『福澤諭吉選集第十巻福翁自伝』(岩波書店、1981年)
〔関連リンク〕
付録・西洋旅案内(抄)
福澤諭吉は、1867年に『西洋旅案内』という海外旅行の手引書を出版している。当時、横浜から上海、香港、シ
ンガポール、セイロン、アデン、スエズ、アレキサンドリア、マルセイユ、サウサンプトンに向かう「印度海飛脚船」
と、横浜、サンフランシスコ、パナマ、ニューヨークに向かう「太平海飛脚船」とがあったそうで、それらの船の乗り方
について解説している。ここでは、その序文と船中の模様の部分を抜粋して掲載することにする。もっとも、そのま
ま掲載するのはコンピュータのIMEでは入力し難いし、何よりも読みにくい。そこで例によって表記は適宜現代風に
改めている。すでに著作権が消滅している著作なので多少の改変は許されるだろうし、こうした扱いは漢語調の権
威的な悪文を攻撃した諭吉の望むところと思われるからである。
西洋旅案内序
論語に、朋遠方より来ることあり、亦悦ばしからずやと。朋の遠方より来るは随分悦ばしくもあるべけれども、唯
人の来るを居ながら待つばかりでもなし。折節はこちらからも遠方へ出掛けたきものなり。余が生まれつき旅行を
好み、幸いにその機会を得て、万延申の年、はじめてカリフォルニアに航海し、その後、文久戌の年はヨーロッパ
の諸国を巡歴し、今年はまたワシントン、ニューヨークへ行き、都合三度外国の旅行せしが、いろいろ珍しき事を
見聞し、その国々の人情風俗も分かりて、心得となる事々も少なからず。よってひそかに考えるに、我が日本国も
近来は追々外国人と親しくなり、殊に昨年の夏は、外国に勝手に行くべしとのお許しもあり、同時に太平海の飛脚
船は出来、いよいよ双方の交わり厚かるべきしるしにて、この後日本人の外国へ往来するもの必ず多かるべしと
思いぬれば、その輩の手引きのため、飛脚船の模様、乗船の時の心得方など、この度見聞せしだけを書き集め、
又先年ヨーロッパへ行きしとき書留置きし日記、その他原書の中よりも抜書きし、かれこれ取集めて一冊に綴り、
これを西洋旅案内と題せり。もとよりこの冊子は外国の事を更に弁えざる人のために綴りたるものにて、その意味
浅ければ、彼の国の書を読み、又はこの国へ渡りて物事に明るき人は、これを見るともおもしろくもなく無益のこと
なり。余が本意とても実は世間にかかる博識の多くなりて、この冊子などを見る人のなきこそ願うところなれ。
慶應三年丁卯八月 福澤諭吉 誌
船中の模様
西洋にて船の大小をいうには、トンの数を以って計う。日本にて船の大きさを積高の石数にて勘定すると同様な
り。トンとは掛け目の名にて、1トンは米6石余りの重さに当たる。故に1千トンの船といえば、6千石余り積む船な
り。飛脚船は大抵2千トンより、4、5千トンまでの大船にて、荷物も沢山積み、旅客も多人数乗るべし。船中の模
様は、太平海の飛脚船も印度海の飛脚船も大抵同じことなれば、この度余輩の乗りし太平海の飛脚船コロラドの
模様をあらまし左に記すべし。船の大きさ3千7百トン、長さ60間、巾8間、蒸気の力も甚だ強く、向かい風にて1昼
夜に百2、30里も走る。船の両側にライフボートとて、ばつていら10艘程あり。このばつていらには底に仕掛けがあ
りて、たとい水船になるとも沈むことなきようにしたるものなるゆえ、もし本船の難船することあるときは、このライフ
ボートにて助かる工夫なり。そのためライフボートの内には、平生より飲み水、パン、並びに天文を測る道具を備え
置き、何時にても不意の節はこれに乗り移り、飢渇の心配もなく、道具にて天文を測れば何方にても自由に行かる
るようにしたるものなり。又、船中の人数銘々の寝床に浮袋の用意あり。これ亦非常のために備えしものなり。
乗組みの人数、船将以下役々、水夫、賄頭、小使に至るまで百人余りにて、船中一切のことを取扱い、旅客は
千人ばかりも乗せて、席を上中下三段に分け、上の客は船の艫に部屋あり。一部屋の広さ凡そ4畳半、その片側
へ巾2尺、長さ6尺ばかりの寝床の棚を3段につりて、3人相部屋なり。但し、船中造作の模様によりて、2人寝の部
屋もあり、6人寝の部屋もあり、又客の多きときは、3人寝の部屋へ別の寝床を附けて、5人寝とすることもあり。
部屋部屋の寝床へ夜具の用意は勿論、朝夕のつかい水、手水鉢、うがい茶碗、さぼん、手拭、水こぼし、しび
ん、船に酔いしとき吐く器までも備わり、部屋並びにその他の掃除は小使の引受けにて、船中塵ひとつなきように
よく行き届けり。毎朝掃除終れば、4半時のころ、船の役人並びに医師の立会いにて船中の見回りあり。
食事は朝昼夕3度、朝の食事をブレッキフアスといい、昼をロンチンといい、夕をヂンネルという。朝は茶を飲み、
食事の品も十色ばかり、昼も同じく一寸葡萄酒などを飲み、格別の馳走なし。夕の食事は3度の内一番の馳走に
て、色々の品3、40種類も取り揃え、酒も沢山用い、ゆるりと飲食す。馳走の品は3度とも肉類、魚類、飯、パン、食
後には蒸し菓子、水菓子、総て料理は日本よりも余程丁寧なり。但し日本にて平生肉食に馴れざる人は、船に乗
るとき、漬物、醤油、その他の食物、少しばかり用意すべし。外国風の食事のみにては、はじめ2、30日の間困るも
のなり。
食事の間には巾3尺ばかりの長き台幾つもありて、その上に馳走の品物並びに銘々の皿、茶碗を並べ、この台
をテイブルという。食事をする者は、10人も20人も椅子に腰を掛けて、ひとつテイブルの周囲に寄集まり、寄合膳に
て食事する姿なり。
上の客、病気の節、自分の部屋へ食物を取り寄せるは勿論、又は自由に茶など言いつけるとも勝手次第なれど
も、部屋の内に煙草は禁制なり。総て船中は火の元厳重にて、火消しの道具も十分に用意し、時々不意に鐘を鳴
らして火事の調練をすることあり。
中の客は艫の下の段に部屋あり。部屋向きも粗末、食事も上の客と一緒にすることならず、その他の取扱、上
の客とは差別あれども、格別見苦しきこともなし。
下の客は、船の舳の方にて、水夫などと打ち交じり、寝床もあるかなし、食物の粗末なるは勿論、つかい水とても
自由にならぬ位にて、極下輩の者ならでは、その難渋に堪えざるべし。
船はもとより乗合のことなれば、世界中諸国の旅客打ち交わり、親子連れもあり、夫婦連れもあり、老人もあり、
子供もあり、或いは酒を飲んで謡を歌い、或いは茶を飲んで理屈をいい、或いは書を読み、或いはカルタをとり、
或いは田舎者が在処の自慢をし、或いは下手将棋がまけて腹を立て、笑う者あり、泣く者あり、冷やかされる者あ
り、嫌われる者あり、その有様は日本の乗合船に少しも変わることなし。但し西洋にては婦人を丁寧に取扱い、総
て行儀正しき風俗なるゆえ、初めて船に乗る人などはよくそのことを心得、婦人へ向かいて失礼をせざるは勿論、
男同士にてもあまり妄りがましき話をすべからず。人の見る処にてこしはだをぬぎ素足を出し、婦人の前にて煙草
を飲むなどは、甚だ失礼のこととせり。慎むべし。このことは船中ばかりに限らず、彼の国一体の風俗なるゆえ、
上陸の後も忘るべからず。
船中の便所は左右に10所づつもありて、上の客と中の客とは区別あり。又、舳の方へも下の客並びに水夫ども
の便所数カ所あり。総て便所は、船中役人の立会にて毎朝掃除し、誠に奇麗なり。彼の国の大便所は、家の内に
あるものも船中にあるものも、その模様少しも変わらず。一段高き所に円き穴ありて、この穴に腰を据える趣工な
り。然るに初めて外国へ行く人など、そのことを心得ずして、日本流にすると便所を汚し、かならず外国人に笑わ
れて、面目次第になきことあり。よくよくつつしむべし。
〔参考文献〕
富田正文編『福澤諭吉選集第ニ巻西洋旅案内』(岩波書店、1981年)
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ピュータにダウンロードして閲覧するというインターネットの特殊性から、その主張は極めて困難と考えます。
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00/08/13