日本のフェリー概観


 このページでは、日本のフェリーを概観してみることにします。

 前半に掲載した「日本長距離カーフェリー小史」は、私がドイツのフェリー雑誌、FERRIES Das Fährschiffahrtsmagazin, September 2005(Duetscher Fährschiffahrtsverein e. V.、2005年) 向けに書いた原稿「Fähren in Japan」(ドイツ語)の下書き原稿(日本語)を流用したものです。

 後半は、英国のferryguide 2003/4 (Seatrade、2003年)向けに書いた原稿「Japan overview」(英語)の下書き原稿(日本語)の流用です。やや情報が古くなっているところがありますが、ご了承ください。以前は前半部分もこちらの下書き原稿を掲載していましたが、前半部分に限って、上記原稿と差し替えました。またフェリーの年表はこちらからリンクすることにいたしました。

■日本フェリー年表■

鉄道連絡船100年史(1882年‐1988年)

日本長距離カー・フェリー30年史(1968年‐1979年)

日本長距離カー・フェリー30年史(1980年‐1990年)

日本長距離カー・フェリー30年史(1991年‐1997年)


日本長距離カー・フェリー小史

1、はじめに

 北海道、本州、四国、九州の4つの島(本土)と、その他の島々からなる日本は、昔から海運が盛んである。本土と離島を結ぶ船の他、1884年からは近代的な鉄道連絡船が、日本の海域に就航した。鉄道連絡船の主な航路は、稚泊航路(稚内―大泊(現、コルサコフ)、167km)、青函航路(青森―函館、113km)、宇高航路(宇野―高松、20.7km)、関釜航路(下関―釜山、226km)の4つであり、とりわけ関釜航路は重要な航路であった。

Hirafu Maru

比羅夫丸(青森―函館、113km)

 第二次世界大戦以前は、これらの航路の他に、大陸と日本本土を結ぶ航路(その全ては植民地航路)と南北アメリカ、オーストラリア、アフリカ、そしてヨーロッパと日本を結ぶ遠洋定期船航路があり、日本郵船、大阪商船(現、商船三井)等がこれらの航路を経営していた。

日本の鉄道連絡船航路

稚泊航路 稚内―大泊(コルサコフ) 167km
青函航路 青森―函館 113km
宇高航路 宇野―高松 20.7km
仁掘航路 仁方―堀江 38km
宮島航路 宮島口―宮島 1.9km
大島航路 大畠―小松港 2.8km
関森航路 下関―小森江 3.7km
関門航路 下関―門司 3.7km
関釜航路 下関―釜山(プサン) 226km
博釜航路 博多―釜山(プサン) 215km

 第二次世界大戦後、植民地航路の全てと、遠洋定期船航路の殆どすべては消滅し、離島航路と、鉄道連絡船のうち青函航路、宇高航路、その他の短距離航路だけが、日本のフェリー航路として生き残った。

 日本で最初の「カー・フェリー」は、1934年3月に就航した「第8わかと丸」と「第9わかと丸」(43gt)だと言われている。運航事業者は「若戸渡船」で、この両頭船はトラック2台とオート3輪4台を載せて、九州北部の若松と戸畑間の僅か600mを結んだ。

 1950年に朝鮮戦争が勃発し、日本はアメリカ軍に多くの物資を供給した。この戦争を切っ掛けに日本経済は復活した。

 1954年4月11日、明石(本州)と岩屋(淡路島)間の明石海峡(9.3km)と、福良(淡路島)と鳴門(四国)間の鳴門海峡(14.8km)を結ぶことによって、阪神(大阪・神戸、本州)と四国を、淡路島を経由して結ぶカー・フェリー航路が開設された。就航した船は「あさぎり丸」(229gt)と姉妹船の「若潮丸」という両頭船。地方自治体の兵庫県が明石海峡航路、徳島県が鳴門海峡航路を経営していた。後に、日本道路公団が経営主体となった。

 日本では300キロメートル以上の航路に就航するカー・フェリーを「長距離カー・フェリー」として、特に区別している。この分類は、船自体とは全く無関係な分類であり、単に歴史的沿革的な理由に基づくものに過ぎない。しかし長距離カー・フェリーの多くは大型船であり、トラックのための「海のバイパス」という独特の性格を有している。この点で、旅客のための「海峡渡船」として発展して来たヨーロッパのカー・フェリーとは全く異なる特色を持っており、その特色が船型や航路に反映されていると言える。

注:日本の測度法では、総トン数の算定において閉囲場所である車輛甲板を含まない。

Yotei Maru

羊蹄丸(青森―函館、113km)


2、長距離カーフェリーの誕生(1968年―1975年)

 1960年代、日本は自動車、造船、鉄鋼、電化製品等の産業が発達し、1968年にはGNPが資本主義国の中で、アメリカに次いで2位となった。当時の日本における高速道路網は未発達であり、例えば阪神(大阪・神戸)と九州の小倉を結ぶ国道2号線は、激しく渋滞していた。

 そこで神戸から小倉まで、船でトラックを輸送しようと考えた人物がいた。関光汽船社長の入谷豊州氏である。彼の考えは、フェリーをトラックのための「海のバイパス」として利用しようというものであった。しかし当時の日本では、フェリーとは、本土と離島を結ぶ「海の架け橋」と見なすのが一般的であり、道路と並行してトラックを船で運ぶという着想は極めて独創的なもので、入谷氏を除いて、誰もその考えが成功するとは思ってはいなかった。

 1968年8月10日、阪九フェリーの新船、「フェリー阪九」(4,979gt)が神戸港を出帆し、日本の長距離フェリーの歴史が始まった。11月には「第六阪九」(5,011gt)が神戸(本州)―小倉(九州)航路に就航してデイリー・サービスを開始した。入谷の新事業は多くの人々の予想に反してトラック運転手によって歓迎され、大成功を収めた。

 阪九フェリーの成功に引き続いて、彼は1969年6月に新日本海フェリーを設立した。1970年8月には北海道の小樽と本州の敦賀・舞鶴を結ぶ航路を開設し、「すずらん丸」(9,053gt)を投入した。本船は冬季の日本海の高波を避けるために、船首に独特のドームを持った船で、「海の新幹線」と人々に呼ばれた。本船は当時、日本最大のフェリーであったが、旅客のための公室は殆どなく、専らトラック輸送に特化したものであった。新日本海フェリーはその後、日本最大のフェリー会社に成長した。

 同時に1969年6月には、彼は下関に関釜フェリーを設立している。1970年6月に「フェリー関釜」(3,875gt)が日本の下関と韓国の釜山を結んだ。第二次世界大戦後、初の国際フェリーであり、韓国の釜関フェリーとの共同運航であった。

 かくしてここにSHK Lineグループが成立し、同グループは今日においても、日本のフェリー業界の中核を占めており、クルーズ産業にも進出している(日本クルーズ客船)。
 

Ferry Hankyu

フェリー阪九(神戸―小倉、463km)

 入谷の成功を見て、多くの企業が「カー・フェリー」という新事業に新規参入し、1970年代前半には、日本でカー・フェリーがブームとなった。多くのフェリー会社が設立されて、多くの航路が開設され、そして多くのカー・フェリーが建造された。

 大部分の会社は、トラックのための「海のバイパス」という入谷のビジネス・モデルを真似ていた。しかし「海のバイパス」としての利点を活かせなかった企業の中には、失敗するものもあった。例、(セントラル・フェリー、川崎―阪神、1971年―1972年)、(広島グリーン・フェリー、広島―大阪、1972年―1982年)、(フジ・フェリー、松阪―東京、1974年―1979年)。

 一方、観光客に照準を合わせた豪華カー・フェリーを運航するところもあり、1970年代には様々なタイプのフェリーが建造された。この時期に建造されたフェリーの多くは、現在でもギリシャやペルシャ湾、フィリピンで見ることができる。

開業年 船会社 航路
1968年8月 阪九フェリー 神戸―小倉
1970年2月
1970年8月
ダイヤモンドフェリー
新日本海フェリー
神戸―松山―大分
小樽―舞鶴
1971年3月
1971年3月
1971年4月
1971年6月
日本カーフェリー
関西汽船
セントラルフェリー
宮崎カーフェリー
川崎―細島
大阪―神戸―今治―松山―別府
川崎―大阪―神戸
神戸―細島
1972年1月
1972年2月
1972年4月
1972年4月
1972年5月
1972年7月
1972年7月
1972年7月
1972年10月
広島グリーンフェリー
日本高速フェリー
近海郵船
日本沿海フェリー
名門カーフェリー
宮崎カーフェリー
照国郵船
オーシャンフェリー
太平洋沿海フェリー
大阪―広島
名古屋―高知―鹿児島
東京―釧路
東京―苫小牧
門司―四日市
大阪―細島
鹿児島―奄美―那覇
千葉―徳島
名古屋―勝浦―大分
1973年3月
1973年3月
1973年4月
1973年4月
1973年4月
1973年4月
1973年4月
1973年6月
1973年12月
日本高速フェリー
関西汽船
西日本フェリー
名門カーフェリー
太平洋沿海フェリー
大洋フェリー
四国海運
東九フェリー
新東日本フェリー
東京―勝浦―高知
神戸―細島
神戸―苅田
大阪―門司
名古屋―仙台―苫小牧
大阪―苅田
神戸―長浜
東京―小倉
仙台―苫小牧
1974年6月
1974年10月
1974年10月
1974年12月
新日本海フェリー
フジフェリー
日本高速フェリー
有村産業
小樽―敦賀
東京―松阪
大阪―鹿児島
大阪―那覇
1975年8月
1975年9月
有村産業
大島運輸
那覇―宮古―石垣
鹿児島―奄美―那覇
1977年1月
1977年5月
1977年5月
日本高速フェリー
九州急行フェリー
新日本海フェリー
大阪―志布志―鹿児島
東京―苅田
小樽―新潟

 こうして1975年には、現在の日本のカー・フェリー航路網がほぼ完成した。しかし1973年の石油危機を契機に、日本のフェリー産業は、暗く長い冬を過ごさなければならないこととなったのである。


3、暗く長い冬(1976年―1985年)

 前述したように、日本の長距離フェリーはトラックのための「海のバイパス」として生まれた。しかし旅客を重視した豪華船を就航させた会社もあった。

 ●日本カー・フェリー(川崎―日向航路)
 「ふぇにっくす」(5,954gt、1971年)、「せんとぽーりあ」(5,960gt、1971年)「ぶーげんびりあ」(5,964gt、1971年)

 ●関西汽船(阪神―今治―松山―別府航路)
 「ゆふ」(3,360gt、1971年)、「まや」(3,229gt、1971年)

 ●照国郵船(鹿児島―奄美―徳之島―沖永良部―与論航路)
 「クィーンコーラル」(6,430gt、1972年)

 ●日本高速フェリー
 「さんふらわあ」姉妹(後述)

 しかし1973年の石油危機により燃料価格が高騰し、しかも不況により観光客が減少して、豪華フェリーを運航していた会社は大打撃を受けることとなったのである。1976年に鹿児島商船が、鹿児島―神戸間に豪華フェリーを就航させる計画があったが、実現はしなかった。次々と豪華船は日本近海から姿を消し、貨物船のような船に代わって行ったのである(例、新日本海フェリーの「ニューすずらん」(16,250gt、1979年)「ニューゆうかり」(16,239gt、1979年)、阪九フェリーの「ニューやまと」(11,919gt、1983年)「ニューみやこ」(11,914gt、1984年)等)。ここでは日本のカーフェリーの代名詞となった豪華フェリー「さんふらわあ」の歴史の詳細について紹介することとしよう。

 「さんふらわあ」は、九州の海運王で照国グループ会長の中川喜次郎氏が、夢を実現させた豪華フェリーである。1972年から1974年にかけて、5隻建造された。運航していたのは、いずれも日本高速フェリー。

 第1船の「さんふらわあ」(11,312gt)は、1972年1月18日に川崎重工神戸工場で竣工し、2月1日に名古屋(本州)―高知(四国)―鹿児島(九州)航路に就航した。続いて5月には、姉妹船の「さんふらわあ2」(11,314gt)が就航した。全長185m、全幅24m、喫水6.4mで、旅客定員1,124人、トラック(10トン)84台、乗用車208台を積載できる、当時日本最大のカー・フェリーであり、レストラン、グリル、ラウンジ、ダンスフロアーの他、バー、ディスコ、プール、ビア・ガーデン等の充実した公室を有する豪華フェリーであった。とりわけ、船体に描かれた「太陽(さんふらわあ)」のマークが印象的な船であり、たちまちにして「さんふらわあ」はカー・フェリーの代名詞となった。2番船は当初、「さんらいず」として建造されていたが、「さんふらわあ2」として就航した。

 1973年3月3日、第3船の「さんふらわあ5」(12,711gt)が来島どっく大西工場で竣工し、東京(本州)―那智勝浦(本州)―高知(四国)航路に就航した。6月25日には第4船の「さんふらわあ8」(12,759gt)が竣工し、同航路に就航した。この姉妹は、更に豪華な設備を自慢としていた。

 そして1974年9月9日、最も豪華な「さんふらわあ11」(13,599gt)が来島どっく大西工場で竣工し、大阪(本州)―鹿児島(九州)航路に就航した。本船は煙突を直列に2本持つ、世界的に珍しいカー・フェリーであり、60億円を費やした過度に豪華な船であった。

 しかし1973年の石油危機が、5隻のさんふらわあ姉妹を直撃した。1975年9月2日には、親会社の照国海運が倒産し、日本高速フェリーは親会社を失って、早くも危機に瀕したのである。ここから「さんふらわあ姉妹」の苦難の歴史が始まった。

 1974年9月、「さんふらわあ」が係船され、売りに出された。1975年9月には「11」が来島どっくに売却され、日本高速フェリーは傭船して運航した。1976年10月には「2」が係船された。1976年12月、遂に「さんふらわあ」と「2」は大洋フェリーに売却されて、大阪(本州)―苅田(九州)航路に就航した。かくして、「5」が名古屋―高知―鹿児島航路、「8」が東京―那智勝浦―高知航路、「11」が大阪―鹿児島航路に就航するという最小限の体勢となったのである。

 しかし姉妹の苦難は続いた。1978年4月、「5」は係船され、名古屋―高知―鹿児島航路は廃止になった。1979年12月に「5」は大阪―(志布志)―鹿児島航路に就航したが、日本高速フェリーは1984年2月に「5」と「8」を来島どっくに売却して、傭船して運航を継続した。

 一方、大洋フェリーの「さんふらわあ」と「2」は、1984年に関西汽船の「フェリーこがね丸(旧、あるごう)」と「フェリーにしき丸(旧、おりおん)」と交換し、関西汽船は取得した「さんふらわあ」と「2」を更に来島どっくに売却して、傭船して阪神―別府航路で運航した。このようにして、5隻の「さんふらわあ」は、全て来島どっくの船となったのである。

 しかし姉妹の苦難はなおも続いたのだった。来島どっくが崩壊したのである。1990年1月、日本沿海フェリーが、日本高速フェリーから、東京―那智勝浦―高知航路と「8」を買収し、11月には大阪―鹿児島航路と「5」「11」を買収して、日本高速フェリーは遂に解散した。日本沿海フェリーは、「ブルーハイウェーライン」に商号変更して、使用船の全てを「さんふらわあ+地名」に変更した。「5」は「さんふらわあ おおさか」、「8」は「さんふらわあ とさ」、「11」は「さんふらわあ さつま」となった。一方、関西汽船は、「さんふらわあ」と「2」を来島興産から購入した。

 1993年、ブルーハイウェーラインは、「11」と「5」を海外に売却。1997年には「8」も売却した。関西汽船は1997年に「2」を売却し、1998年には最も古い「さんふらわあ」を売却して、5隻の「さんふらわあ」姉妹が日本を去ったのである。

 その後、ブルーハイウェイラインは、商船三井フェリーとブルーハイウェーライン西日本とに分社化された。この2社と関西汽船の使用船には、現在、すべて「さんふらわあ」の名前が付けられている。豪華客船は消滅したが、「さんふらわあ」の名前だけは、残ったのである。


4、バブル景気(1986年―1995年)

 1985年9月のプラザ合意以降、円高が急速に進み、一方で原油価格が下落した。こうした動きは、当時世界一の地位にあった日本の造船業に打撃を与えることとなった。しかし長年もがいていた日本のフェリー業界にとっては、転機となったのだった。というのは、造船業界が不況のため船価が下落して代船建造が容易になり、一方、原油価格の下落によって営業収支が好転したからである。更に1989年には日本は記録的な好景気となり、本格的なクルーズ船が建造され(例、「おせあにっく ぐれいす」、「ふじ丸」等)、レジャー産業も発達した(例、リゾート、ゴルフ場、テーマパーク等)。このような背景の下、所謂、豪華クルーズフェリーが日本でも建造されるようになり、70年代に大量に建造された古い船が、地中海やフィリピンに売却されて行った。ヨーロッパで日本の古いフェリーが注目されるようになったのは、この頃のことである。

 最初のクルーズフェリーは、四国の松山・今治と本州の神戸を結ぶ短距離航路に登場した三宝海運の「ほわいとさんぽう2」(10,182gt、1981年)であった。瀬戸内海に就航しているカー・フェリーの中では豪華な公室を持つ船であり、話題を呼んだ。

 長距離カー・フェリーにおいては、新日本海フェリーと太平洋フェリーの新船が注目された。いずれも豪華な客室と公室で、観光客を惹きつけようとするクルーズフェリーであり、かっての貨物船のような船とは全く異なるものであった。

 ●新日本海フェリー
 「ニューはまなす」(17,261gt、1987年)、「ニューしらゆり」(17,261gt、1987年)、 「ニューあかしあ」(19,750gt、1988年)、「フェリーらべんだあ」(19,904gt、1992年)、「フェリーあざれあ」(20,552gt、1994年)、「フェリーしらかば」(20,555gt、1994年)

 ●太平洋フェリー
 「きそ」(13,691gt、1987年)、「きたかみ」(13,937gt、1989年)、「いしかり」(14,257gt、1991年)

 太平洋フェリーの3姉妹は、日本を代表するクルーズフェリーであり、とりわけ「いしかり」は、その内装の豪華さとサービスの良さで人気を集めた。太平洋フェリーは、日本における「Silja Line」と言っても過言ではない。事実、日本のフェリー会社の幹部は、北欧のクルーズフェリーを視察して歩いたものである。

 この他の豪華クルーズフェリーとしては、近海郵船の「サブリナ」(12,521gt、1990年)、「ブルーゼファー」(12,500gt、1990年)、有村産業の「クルーズフェリー飛龍」(16,494gt、1995年)、「クルーズフェリー飛龍21」(14,700gt、1996年)が挙げられる。いずれも旅客を重視したカー・フェリーであった。

Ferry Lavender

フェリーらべんだあ(小樽―舞鶴、1,061km)

 第二次世界大戦で廃墟と化した日本を再建すべく、ひたすら蟻のように働いて来た日本人は、ここに至って初めてクルーズを楽しむことができるだけの生活水準に達したのである。しかしその繁栄は長くは続かなかった。1991年には株価や地価が暴落し(バブル崩壊)、再びフェリー業界は、もがくことを余儀なくされたからである。


5、不況下の2つの流れ(1996年―2005年)

 日本経済は90年代に入って低迷し、フェリー業界は貨物と乗客の減少に再びあえぐこととなった。日本政府は不況を打開するために経済的な規制を緩和し、免許によって保護されて来たフェリー会社は、初めて真の自由競争に曝されることとなった。このとき、日本にも格安航空会社が生まれたが(1996年)、ありがたいことに大手航空会社との厳しい競争により、フェリーの脅威となる程の成長を遂げなかった。むしろ日本の長距離フェリー会社は、RoRo船(貨物フェリー)やその他の貨物船との競争に直面することとなったのである。ここで2つの興味深い動きを見ることができる。

 一つは旅客を鉄道や航空機と奪い合うことを諦める動きである。東京と北九州を結ぶオーシャン東九フェリーは、コストを削減するために、旅客と乗員を大幅に減らした「カジュアル・フェリー」という称号を与えたフェリーを就航させた(「おーしゃんのーす」(11,114gt、1996年)「おーしゃんさうす」(11,114gt、1996年))。このフェリーは148人乗りのレストランを持たない自動販売機だけのハイテク船であり、「洋上サービス・ステーション」とも言える簡素なフェリーである。更に東京と釧路を結ぶ近海郵船(現、近海郵船物流)は、遂に旅客運航を止めて、RoRo船に切り替えてしまった(1999年)。

Ocean South

おーしゃんさうす(東京―北九州、1,163Km)

 もう一つの動きは、豪華クルーズフェリーの就航である。2002年から2004年にかけて、新日本海フェリーは、「らいらっく」(18,225gt、2002年)、「ゆうかり」(18,225gt、2003年)、「はまなす」(16,810gt、2004年)、「あかしあ」(16,810gt、2004年)の4隻を就航させた。いずれもバルコニー付きの豪華な船室を自慢とするクルーズフェリーである。しかし70年代の豪華フェリーとは異なり、貨物を収入源にしている点に特徴がある。特に32ノットの高速フェリーである「はまなす」と「あかしあ」は、それまで3隻が29時間で結んでいた舞鶴―小樽航路を、2隻で20時間で毎日結ぶものであり、大幅なコスト・ダウンを図って高速RoRo船に対抗するものである。その上で豪華な旅客設備を提供して旅客を惹きつけようとしている。2005年1月には、太平洋フェリーの豪華フェリー、「きそ」(15,795gt)が登場した。

 今日、日本政府は、所謂モーダル・シフトを推進して地球の温暖化を防止すべく、貨物輸送をトラックから鉄道・フェリーに転換しようとしている。交通渋滞を解決すべく生まれて来た日本の長距離フェリーではあるが、今日では地球環境を保全するものとして再評価されている。「海のバイパス」としてのフェリーの機能が注目されている。

Fähren in Japan, FERRIES Das Fährschiffahrtsmagazin, September 2005 (Duetscher Fährschiffahrtsverein e. V.、2005)


日本の長距離フェリー2002年現在)

 日本の長距離フェリーは、大きく内航フェリーと外航フェリーに分類できる。内航フェリーは北海道航路、九州・四国航路、瀬戸内海航路、沖縄航路に分けて考えると理解しやすい。

Map of Japanese Ferry Routes


北海道航路

 北海道の主要なフェリー港は、小樽、苫小牧、室蘭、函館であり、新日本海フェリー、太平洋フェリー、東日本フェリー、商船三井フェリーが大手のオペレーターである。

北海道航路(長距離航路)(2002年現在)

苫小牧―仙台―名古屋 太平洋フェリー

1,330km

小樽―新潟 新日本海フェリー

704km

小樽―舞鶴 新日本海フェリー

1,061km

苫小牧―秋田―新潟―敦賀 新日本海フェリー

1,074km

苫小牧―敦賀 新日本海フェリー

1,074km

苫小牧―大洗 東日本フェリー・商船三井フェリー

758km

室蘭―直江津 東日本フェリー

678km

 太平洋フェリーは、「きそ」(13,730G/T)、「きたかみ」(13,937G/T)、「いしかり」(14,257G/T)を就航させており、クルーズ客船のような豪華フェリーで、食事、娯楽に力を入れた旅客重視のサービスを展開している。名古屋の名古屋鉄道のグループ企業である。

 新日本海フェリーは、関光汽船が中心になっているSHK Line グループの一つであり、1969年に設立された。ここも旅客重視のフェリーを就航させており、「フェリーしらかば」(20,555G/T)、「フェリーあざれあ」(20,558G/T)などの大型フェリーの他、最近は「らいらっく」(18,300G/T)、「ゆうかり」(18,300G/T)という豪華フェリーも就航させている。

 

らいらっく・ゆうかり

建造

石川島播磨重工業(2002年・2003年)

総トン数

18,225GT

全長

199.9m

全幅

26.5m

喫水

6.9m

旅客定員

892

トラック

146

乗用車

58

航海速力

22.7knots

 新日本海フェリーは、「日本海」という名前からも明らかなように、日本海を舞台とするフェリー会社であるが、1999年7月に太平洋に進出し、苫小牧―敦賀航路を開設した。さらに2002年9月には、小樽―敦賀航路を廃止し、苫小牧―敦賀航路に「すいせん」(17,329G/T)、「すずらん」(17,345G/T)という高速フェリーを投入している。こうした動きの背景にはRoRo船との熾烈な戦いがある。日本最大の船会社である日本郵船の子会社、近海郵船は、かっては釧路―東京航路に「サブリナ」(12,524G/T)、「ブルーゼーファー」(12,524G/T)という豪華フェリーを就航させていたが、1999年に旅客フェリーからRoRo船に切り替えた。その後2002年6月には苫小牧―敦賀航路に8,600GTの高速RoRo船「ほくと」、「つるが」を投入した。この航路は小樽―敦賀航路よりも北海道の大都市、札幌と西日本の大阪圏を短時間で結ぶことができる点でメリットがある。そこで、新日本海フェリーは29ノットで航行する高速旅客フェリーを投入して対抗したのである。こうしたRoRo船との間における貨物を巡る戦いは、北海道と首都圏(東京)を結ぶ航路にも影響を与えている。

新日本海フェリーの売上高(百万円)

 

1999

2000

2001

売上高 25,606 25,305 28,305

新日本海フェリーの事業構成

貨物自動車 乗用車 旅客 貸船 その他

65.8%

9.8%

10.3%

9.5%

4.6%

 北海道と首都圏を結ぶ航路は1972年に開設された。日本沿海フェリー(後のブルー・ハイウェイ・ライン、商船三井フェリー)が運航した「しれとこ丸」(8,900G/T)がその第1船であり、苫小牧と東京を結んだ。その後、首都圏に近い大洗と北海道を結ぶフェリー航路を開設する際に苫小牧と室蘭という2つの港町が大変に争い、世に「とまらん戦争」とまで呼ばれたことがあった。結局、東日本フェリーが室蘭―大洗航路、商船三井フェリーが苫小牧―大洗航路を運航することになった。しかし貨物の多くは札幌に向かうことから、札幌に近い苫小牧航路が室蘭航路に勝利するのは明らかだった。かくして、2002年6月に室蘭航路は廃止となり、東日本フェリーと商船三井フェリーが共同で苫小牧航路を運航することとなった。現在、4隻の旅客フェリー、「へすていあ」(13,539G/T)、「ばるな」(13,654G/T)、「さんふらわあみと」(11,782G/T)、「さんふらわあつくば」(12,325G/T)を就航させているが、貨物を巡り、運賃の安いRoRo船との厳しい戦いを繰り広げている。苫小牧―東京航路には、商船三井フェリーと川崎近海汽船が貨物フェリー「さんふらわあとまこまい」、「ほっかいどう丸」を運航しているが旅客は扱っていない。

 札幌に本拠を置く東日本フェリー(苫小牧―大洗、苫小牧―八戸、室蘭―八戸、室蘭―青森、室蘭―直江津、函館―青森、函館―大間)は、北海道の離島航路、青函航路に起源を置く会社である。現在、離島航路は、東日本海フェリーという子会社が運航し、利尻島・礼文島・奥尻島と北海道を結び、さらにはロシアのサハリンと北海道をも結んでいる。一時は岩内―直江津、苫小牧―仙台にも航路を持っていたが収益の悪化から廃止し、「はあきゆり」(13,403G/T)、「へるめす」(13,383G/T)、「びくとり」(17,113G/T)、「ばるな」(16,725G/T)という大型船は相次いでギリシャ、イタリアのオペレータに売却されている。星座、神話に由来する船名をつけていることで知られている。

東日本フェリーの船隊(2002年現在)

船名 総トン数 全長 全幅 航海速力 竣工年
へすていあ

13,539GT

192.00m

27.0m

24.00knots

1993

ばるな

13,654GT

192.00m

27.0m

24.00knots

1998

べが

6,340GT

134.60m

21.0m

20.00knots

1990

びるたす

6,327GT

134.60m

21.0m

20.00knots

1991

フェリーはちのへ

4,967GT

126.55m

20.7m

18.20knots

1989

べにりあ

6,118GT

134.60m

21.0m

19.40knots

1999

びるご

6,358GT

134.60m

21.0m

20.00knots

1990

ほるす

7,192GT

136.60m

21.0m

20.00knots

1994

びなす

7,198GT

136.60m

21.0m

20.00knots

1995

ばにあ

5,110GT

126.23m

20.0m

20.91knots

1984

びいな

2,290GT

98.63m

17.2m

18.65knots

1987

ばあゆ

1,529GT

83.44m

14.5m

16.25knots

1988

*川崎近海汽船との共有船

 青函航路は北海道の函館と本州の青森を結ぶ航路で、古くは鉄道連絡船が結んでいたが、1988年3月に世界最長の「青函海底トンネル」が開通し、廃止となった。しかしフェリーのすべてが廃止になったわけではなく、東日本フェリーの他、道南自動車フェリー、青函フェリーがカー・フェリーを運航している。東日本フェリーは青函航路に「ゆにこん」(1,498G/T)という高速フェリーを就航させていたことがあったが、2000年に廃止した。

北海道のフェリー航路利用状況(輸送人員)

 

中・長距離フェリー

海峡フェリー

離島航路

合計

2000

1,312,566

978,717

1,077,152

3,368,435

2001

1,294,170

964,406

1,187,523

3,446,099

北海道運輸局海事振興部調べ


九州・四国航路

 九州航路は、太平洋航路と日本海航路の2つに分けることができる。

 かっては日本の大手船会社の一つである商船三井の子会社、ブルー・ハイウェイ・ラインが、太平洋の東京―那知勝浦―高知航路に、「さんふらわあくろしお」(9,700G/T)を就航させていた。しかし業績不振からこの航路は2001年に廃止になり、ブルー・ハイウェイ・ラインは解散した。

九州・四国航路(長距離太平洋航路)(2002年現在)

宮崎―那智勝浦―川崎 マリンエキスプレス

915km

日向―高知―川崎 マリンエキスプレス

887km

北九州(新門司)―徳島―東京 オーシャン東九フェリー

1,163km

宮崎―大阪 マリンエキスプレス

502km

志布志(鹿児島)―大阪 ブルー・ハイウェイ・ライン西日本

584km

足摺―高知―大阪 大阪高知特急フェリー

408km

 代わって首都圏と那知勝浦・高知を結ぶことになったのは、マリンエキスプレスである。「パシフィックエキスプレス」(11,582G/T)、「フェニックスエキスプレス」(11,578G/T)という2隻の船を就航させている。2001年度の輸送実績は、6万6000人の乗客、5万7000台の車輛である。また、九州急行フェリーが、追浜(首都圏)―御前崎―苅田(九州)を結んでいるが、これは貨物フェリーである。

 現在、東京と九州を結んでいる旅客フェリーは、オーシャン東九フェリーのみである。4隻のフェリーを、東京―徳島―北九州(新門司)に毎日運航している。ここで特筆すべきは1996年に就航した「おーしゃんのーす」、「おーしゃんさうす」の2隻の11,100G/T型フェリーである。このフェリーは、所謂「カジュアルフェリー」と呼ばれる大変簡素化された旅客フェリーで、1等船室や食堂等を廃止し、代わりに自動販売機や電子レンジ、コインランドリーを設置しただけという、世界でも類い稀な超近代的な合理化船である。乗客は24時間冷凍食品を楽しむことができる未来の船であるとも表現できるものであるが、「洋上のサービス・ステーション」という表現が最も適切である。2001年には東京―北九州間で49,000人の乗客、98,000台の車輛を輸送した。

 西日本の中心地、大阪と九州を結ぶ航路は2つあり、マリンエキスプレスが大阪―宮崎航路、ブルー・ハイウェイ・ライン西日本が大阪―志布志(鹿児島)航路を運航している。2001年度は両社合わせて33万4000人の乗客、16万1000台の車輛を輸送した。また大阪と四国(高知・足摺)の間に大阪高知特急フェリーが「フェリーこうち」(4,140G/T)、「ニューかつら」(6,773G/T)を就航させている。

九州航路(長距離日本海航路)(2002年現在)

福岡(博多)―上越(直江津) 九越フェリー 901km

 日本海においては、九越フェリーが福岡(博多)と上越(直江津)を結んでいる。この航路は海が荒いために定期運航が難しいとされてきたところで、開設されたのは1996年のことである。九越フェリーは東日本フェリーの子会社であり、本店は九州の大都会、福岡にある。当初、ここには「れいんぼうべる」(13,597G/T)と「れいんぼうらぶ」(13,621G/T)という2隻の豪華フェリーを就航させた。定員は350人(450人)と控えめだったが、旅客を重視した豪華な内装の船で、食堂のメニューにも値の張る料理を用意していた。しかし実際に運航を開始してみると観光客は少なく、乗客の大半は個人営業のトラック運転手だった。そのためたちまちにして不採算船となってしまった。九越フェリーは旅客の扱いを止めてRoRo船に切りかえることも検討したが、貨物の積載量を殆ど変えずに旅客用の設備を簡素化した新船を2001年に投入することにした。それが「ニューれいんぼうべる」(11,410G/T)と「ニューれいんぼうらぶ」(11,401G/T)である。この船は所謂「モノクラス」のフェリーで、トラックの運転手定員と一般の乗客の定員をほぼ同数にしており、旅客定員は150人である。ただ、オーシャン東九フェリーの「カジュアルフェリー」のような極端な合理化はせずに、コックが乗客に食事を提供するサービスは維持している。2001年には19,000人の乗客、33,000台の車輛を輸送した。

船名 れいんぼうべる(1996年) ニューれいんぼうべる(2001年)
総トン数

13,597GT

11,410GT

全長

196m

190m

全幅

27m

26.4m

旅客定員

350

150

トラック

180

180

乗用車

100

100

航海速力

25knots

25knots

 前の「れいんぼうべる」、「れいんぼうらぶ」はギリシャのAnek Linesに売却されることになっていたが、財政的な事情からAnek Linesは購入を取消し、2船は室蘭、長崎に係船されていた。その後、日本の新しいフェリー会社のシャトル・ハイウェイ・ラインがこれらの船を使って、大分―横須賀航路で新しいフェリー運航を開始すると報じられていたが、財政上の理由から営業運航開始の見通しが立っていない。


瀬戸内海航路

 瀬戸内海は本州と四国、九州とに囲まれた内海であり、多数の島がある。ここは大阪・神戸と九州を結ぶ長距離航路と、離島航路に分類することができる。瀬戸内海航路の船は、海が穏やかなため、車輛甲板に大きな窓が開いており、離島航路には両頭カー・フェリーが多い。

瀬戸内海航路(長距離航路)(2002年現在)

別府―松山―神戸―大阪 関西汽船

442km

大分―松山―今治―神戸 ダイヤモンドフェリー 420km
北九州(新門司)―大阪 名門大洋フェリー 458km
北九州(新門司)―泉大津 阪九フェリー 458km
北九州(新門司)―神戸 阪九フェリー 454km

 瀬戸内海の長距離航路には4社18隻が就航しており、競争が厳しい。関西汽船は大阪・神戸と松山・別府の間を「さんふらわあこばると」(9,245G/T)、「さんふらわああいぼり」(9,245G/T)、「さんふらわあこがね」(9,684G/T)、「さんふらわあにしき」(9,684G/T)の4隻で結んでいる。何れも船体に大きな向日葵の絵が描かれており、「さんふらわあ」の名前は1970年代においては日本のカー・フェリーの代名詞であった。また神戸と今治・松山・大分を結んでいるのはダイヤモンドフェリーであり、4隻のフェリーを就航させている。2001年には2社で123万6000人、33万9000台の車輛を輸送した。     

 注目すべきは名門大洋フェリーと阪九フェリーの動向である。2001年度の輸送実績は、2社合わせて、84万8000人、41万7000台の車輛を輸送している。

 名門大洋フェリーは大阪―北九州(新門司)間に、「フェリーおおさか」(9,350G/T)、「フェリーきたきゅうしゅう」(9,350G/T)、「フェリーきょうと」(9,320G/T)、「フェリーふくおか」(9,320G/T)を就航させてきたが、2002年に新造船「フェリーきょうと2」(9,730G/T)、「フェリーふくおか2」(9,730G/T)を就航させた。内装を担当したのは英国のダグデイル・マネージメント・アンド・デザイン社。三菱重工業下関造船所で建造し、船価は2隻で90億円。居住性を格段に向上させている。古い「フェリーきょうと」、「フェリーふくおか」はフィリピンのWG&Aに売却された。

 長距離フェリーのパイオニア、阪九フェリーは、泉大津・神戸―北九州(新門司)間に6隻のフェリーを就航させているが、2003年に2隻の新造船を投入する。「やまと」、「つくし」という船で、三菱重工業下関造船所で建造中である。古い「ニューせと」、「ニューはりま」は売却される。新船は旅客定員を削減する一方で、貨物の積載能力・速力を向上させている。

船名 ニューはりま・ニューせと(1988年) やまと・つくし(2003年)
総トン数

12,589GT

13,300GT

全長

174.5m

195.0m

全幅

26.8m

26.4m

旅客定員

1,000

667

トラック

166

229

乗用車

75

138

航海速力

22.6knots

23.5knots

 瀬戸内海の離島航路を運航しているフェリー会社は無数にあり、多くは零細な会社である。瀬戸内海は美しいところであるが、離島の多くは過疎と高齢化に悩まされており、フェリーの利用者の数は減少している。

四国―本州・九州間のフェリー航路利用状況

 

1996

1997

1998

1999

2000

旅客輸送人員

9,998,341

9,507,819.5

7,832,949.5

6,746,226.0

6,395,018.5

自動車航送台数

4,303,190

4,157,766

3,360,987

2,920,543

2,865,691

四国運輸局海事振興部調べ

 1988年に「児島・坂出ルート(瀬戸中央自動車道、瀬戸大橋)」が完成し、その後、1998年に「神戸・鳴門ルート(神戸淡路鳴門自動車道、明石海峡大橋、大鳴門橋)」、次いで1999年に「尾道・今治ルート(西瀬戸自動車道、因島大橋、多々羅大橋、来島海峡大橋など)」が完成し、3つのルートで本州と四国とが結ばれた。これはフェリー業界にとって大打撃であり、多くの航路が閉鎖され、多くのフェリー会社が解散に追い込まれた。そればかりではない。そもそも3つのルートで本州と四国とを結ぶ必要性自体が疑わしく、「政治橋」と批判されてもいる。現在、橋の通行料の引き下げが検討されており、それがフェリー産業にどういう影響を与えるか注目される。

本州四国連絡橋の1日平均の車輛交通量(台)

ルート

橋梁

2001

2002

神戸・鳴門 明石海峡大橋 25,232 25,960
神戸・鳴門 大鳴門橋 18,899 19,528
児島・坂出 瀬戸大橋 15,249 14,968
尾道・今治 因島大橋 11,844 11,966
尾道・今治 多々羅大橋 4,157 4,086
尾道・今治 来島海峡大橋 6,465 6,154

本州四国連絡橋公団調べ


沖縄航路

 沖縄は熱帯の多くの島からなる群島で、中心は那覇という町である。琉球王国という日本とは別個の独立国だったところであり、第二次世界大戦後しばらく米国の支配下に置かれたが、1972年5月に日本に返還された地域である。東京、名古屋、大阪、神戸、福岡(博多)、鹿児島から那覇に向かう船が出ている。大島運輸、琉球運輸、マリックスライン、有村産業が運航し、使用している船の多くはRoRo貨客船で、デリックが付いているのが特徴である。また島嶼間にも多くのフェリー航路があり、事業者の多くは零細企業か地元の自治体である。

沖縄航路(長距離航路)(2002年現在)

東京―志布志―名瀬―那覇 大島運輸

1,745km

名古屋―大阪―与論―那覇―宮古―石垣 有村産業

2,319km

大阪―神戸―宮崎―奄美諸島―那覇 大島運輸

1,298km

福岡(博多)―那覇 琉球海運

948km

鹿児島―那覇 琉球海運

682km

鹿児島―奄美諸島―那覇 マリックスライン

733km

鹿児島―奄美諸島―那覇 大島運輸

733km

 沖縄の大手海運会社、有村産業は1995年に「クルーズフェリー飛龍」(16,480G/T)、1996年に「クルーズフェリー飛龍21」(14,700G/T)という豪華高速フェリーを就航させたが、人件費と燃料費がかさみ、1999年6月に倒産した。旅客を重視した船の建造は経営判断の誤りであった。一時、会社は裁判所の管理下に置かれたが、現在は営業を継続して再建を図っている。

 沖縄航路は日本本土からの貨物は多いが(300万トン)、沖縄から本土への貨物が極端に少ない(50万トン)という特殊性がある。沖縄は日本の魅力的な観光地の一つであるが、観光客の多くは安くて速い航空機を利用しており、遅い船に乗る人は少ない。今日では運賃も航空機に比べて安いというわけでもなくなっている。かって関西汽船、ブルー・ハイウェイ・ラインが大阪・神戸と那覇間にフェリーを運航していたが、業績不振から1998年に撤退している。


外航フェリー

 外航フェリーはロシア航路、韓国航路、中国航路、台湾航路に分類することができる。ロシア航路は現在3つある(夏季のみ)。サハリンの南半分は旧日本領土で、稚内とコルサコフの間には、鉄道連絡船が走っていたことがある(稚泊航路)。第二次世界大戦後ソ連領となったサハリンは、暫く外国人の立入が禁止されていた地域だったが、冷戦終結後に外国人にも門戸が開かれ、航路が再開された。徐々に乗客数が増加してきている。ロシアからは水産物や木材、日本からはシベリア開発のための機械類が積み込まれる。

日ロ航路一覧(2002年現在)

稚内―コルサコフ 東日本海フェリー
小樽―ホルムスク―ワニノ SASCO
伏木(高岡)―ウラジオストク FESCO

 今一番注目されている航路は韓国航路である。朝鮮は1910年から1945年まで日本の植民地とされ、下関・博多と釜山を日本の鉄道連絡船が結んでいた(関釜航路・博釜航路)。しかし1945年6月に戦争のため事実上廃止になっていた。1970年、下関と釜山の間のフェリーが再開され、現在、関釜フェリー、釜関フェリーが「はまゆう」(16,187G/T)、「星希」(17,000G/T)を就航させている。さらに2002年サッカー・ワールド・カップが日本と韓国で開催されたこと等から韓国航路はブームとなり、釜山と大阪・広島・下関・小倉・博多・対馬を結ぶフェリーの他、蔚山―北九州間にも航路が開設されるに至っている。

日韓航路一覧(2002年現在)

航路

運航事業者

船名

開業年

釜山―大阪 汎星海運・サンスターライン パンスタードリーム 2002年4月
釜山―広島 釜関フェリー 銀河 2002年10月
釜山―下関 関釜フェリー・釜関フェリー はまゆう・星希 1970年6月
蔚山―北九州 武星海運・関門汽船 ドルフィンウルサン 2002年4月
釜山―小倉 大亜高速海運 オーシャンフラワー 2002年7月
釜山―博多 カメリアライン かめりあ 1990年12月
釜山―博多 JR九州・韓国鉄道庁 ビートル2世・ビートル3世・ジェビ 1991年3月
釜山―博多 末来高速 コビー・コビーIII 2002年2月
釜山―対馬 大亜高速海運・対馬国際ライン シーフラワー 2000年4月

 最も成功しているのがJR九州であり、「ビートル2世」、「ビートル3世」、「ジェビ」という名のジェット・フォイルを韓国鉄道庁と共同で運航してリーディング・キャリアに成長している。2001年3月31日、かって最大のシェアを誇った日本航空は福岡―釜山線から撤退した。すなわちフェリーが航空会社に勝ったのである。これは日本のフェリー産業界における驚くべき成功の一つだといえる。「ビートル」には「海飛ぶカブトムシ」の愛称が付けられ、多くの人々に愛されている。韓国南部は日本人、とりわけ九州に住む人々にとって、手軽に行ける海外旅行先の一つとなっている。

釜山―博多・下関間の乗客シェアの推移

 

JR九州

カメリアライン

関釜フェリー

末来高速

大韓航空

アシアナ航空

日本航空

1991

9.6%

5.5%

24.0%

0%

28.5%

2.0%

30.3%

1996

23.1%

13.1%

21.0%

0%

29.7%

5.8%

7.3%

2001

40.8%

13.2%

22.2%

1.0%

19.7%

3.1%

0%

渋田哲也『国鉄マンがつくった日韓航路』(日本経済新聞社、2002年)341頁掲載の表より作成

 もっともすべての航路が成功しているわけではなく、釜山―小倉航路の大亜高速海運は集客に失敗し、2003年3月まで運休している。また釜山―広島航路に「銀河」(10,729G/T)を就航させている釜関フェリーも苦戦しており、今後の動向が注目される。

 北朝鮮と日本との間には正式な国交がないが、「万景峰92」(9,672G/T)が元山と新潟の間を結んでいる。主として日本に住む北朝鮮国民のための船である。日本入港を巡り政治的な問題になることもある。

 中国本土と日本の間には4つの航路がある。上海フェリー、中日国際輸渡有限公司・日中国際フェリー、チャイナエクスプレスライン、そしてオリエントフェリーが運航している。オリエントフェリーはSHK Lineグループの一員であり、「ゆうとぴあ」は新日本海フェリーの「ニューはまなす」(17,304G/T)を国際航路仕様に改造した船である。

日中航路一覧(2002年現在)

上海―大阪 上海フェリー 蘇州號(14,410G/T)
上海―神戸・大阪 中日国際輸渡有限公司・日中国際フェリー 新鑒真(14,543G/T)
天津―神戸 チャイナエクスプレスライン 燕京(9,960G/T)
青島―下関 オリエントフェリー ゆうとぴあ(27,000G/T)

 台湾と沖縄の間には有村産業の「クルーズフェリー飛龍」、「クルーズフェリー飛龍21」が就航している。しかし台湾に行く日本人の多くは航空機を利用しており、乗客が多いとは言い難い。

Map of Japanese ferry routes

外航定期航路の日本人客数の推移

年度

1991

1992

1993

1994

1995

1996

1997

1998

1999

2000

2001

韓国

112,500

98,200

91,300

120,900

134,100

130,400

158,700

193,400

224,200

257,700

285,100

中国

14,000

14,400

12,900

11,100

9,600

14,200

12,400

13,400

11,000

12,200

14,300

台湾

1,400

1,300

1,400

1,300

500

800

1,300

1,600

1,700

1,000

1,000

ロシア        

600

1,600

   

1,800

2,200

3,100

合計 127,900 113,900 105,600 133,300 144,800 146,800 172,300 208,400 238,700 273,100 303,500

国土交通省海事局外航課調べ(日本船社・在日外国船社代理店に対するアンケート結果に基づく。)

Japan overview, ferryguide 2003/4 (Seatrade、2003)


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06/02/10