福翁自伝にみる150年前の船旅


 日本で庶民が船旅をするようになったのは、いつ頃からだろうか。日本史の教科書などを開いてみると、水上交

通が発達したのは江戸時代前期であるとされ、沿岸海上航路では江戸と大坂を結ぶ南海路がもっとも盛んだった

と書かれている。菱垣廻船、樽廻船など、「そういえばそんなこと勉強したなあ」と思い出される方もいらっしゃるこ

とだろう。また西海路(長崎〜大坂)は早くから開かれており、17世紀中ごろに幕命を受けた河村瑞賢が、東廻り

航路(江戸〜小湊〜銚子〜荒浜)と西廻り航路(大坂〜下関〜小木〜酒田)を開いたなどと記載されている。

 これらの船は今風に言えば貨物船ということになる。では旅客船はどのようなものだったのだろうか。当時の船

旅の様子はどのようなものであったのだろうか。この点については、一万円札に肖像が印刷されている福澤諭吉

がその自伝『福翁自伝』の中に、具体的に書き残している。そこで、今回は『福翁自伝』から、かってのフェリーの

旅を紹介することとしたい。安政2年(1855年)の船旅である。

 ここで簡単に福澤諭吉のプロフィールを紹介したい。諭吉は天保5年12月12日(1835年1月10日)大阪堂島の中

津藩の倉屋敷で生まれた。玉江橋の近くである。父親は中津藩の下級武士で、現代の言葉で言えばノンキャリア

の公務員であった。しかし1歳のときにその父親が死亡したため、一家は中津(大分県中津市)に引揚げ、そこで

幼少時代を送った。そして19歳のとき長崎に遊学し、翌年大阪にいた兄を頼って大阪の適塾に入塾する。これか

ら紹介するのは、長崎〜大阪までの旅のうち、小倉〜下関、下関〜明石の船旅の様子である。なお、読みやすさ

を重視して、かなづかい等は適宜現代風に改めている。

 

 *Yukichi Fukuzawa (1835‐1901) is one of the most famous thinkers in Japan. He left an autobiography. In his

 autobiography, he wrote circumstances of traveling by ship in those Japan.


 「その間の道中というものは随分困りました。一人旅、殊にどこの者とも知れぬ貧乏そうな若侍、もし行き倒れに

なるか暴れでもすれば、宿屋が迷惑するから容易に泊めない。もう宿の良し悪しは選ぶに暇なく、唯泊めてくれさ

えすればよろしいというので無闇に歩いて、どうかこうか二晩泊って、三日目に小倉に着きました。その道中で、私

は手紙を書いた。即ち鉄屋惣兵衛の贋手紙を拵えて、「この御方は中津の御家中、中村何様の若旦那で、自分は

終始そのお屋敷に出入して、決して間違いなき御方だから厚く頼む」と鹿爪らしき手紙の文句で、下ノ関船場屋寿

久右衛門へ宛て鉄屋惣兵衛の名前を書いてちゃんと封をして、明日下ノ関に渡ってこの手紙を用に立てんと思

い、小倉までたどり着いて泊った時はおかしかった。あっちこっち、マゴマゴして、小倉中、宿を捜したが、どこでも

泊めない。ヤット一軒泊めてくれたところが薄汚い宿屋で、相宿の同間に人が寝て居る。スルト夜中に、枕元で小

便をする音がする。何だと思うと、中風病みの老爺が、しびんに遣っている。実は客ではない、その家の病人でしょ

う。その病人と並べて寝かされたので、汚くて汚くて堪らなかったのはよく覚えております。

 それから下ノ関の渡場を渡って、船場屋を捜し出して、兼ねて用意の贋手紙を持って行った所が、成程鉄屋とは

懇意な家と見える、手紙を一見して早速泊めてくれて、大坂まで船賃が一分二朱、賄いの代は一日いくら、ソコデ

船賃を払うた他に二百文か三百文しか残らぬ。しかし大坂に行けば中津の倉屋敷で賄いの代を払うことにして、こ

れも船宿で快く承知してくれる。悪いことだが全く贋手紙の功徳でしょう。」

 

福澤諭吉旧居(大分県中津市留守居町)

長崎の光永寺で福澤諭吉は蘭学学習の第一歩を踏み出した。この近くに有名な眼鏡橋がある。

 

 さて、これからが船旅となる。小倉〜下関は、現在では関門橋等で簡単に渡ることができ、船で渡るとしても、関

門海峡フェリーで13分ほどの船旅だ。しかし、150年前だとこんな感じの船旅となる。

 

 「小倉から下ノ関に船で来る時は怖いことがありました。途中に出た所が、少し荒く風が吹いて波が立って来た。

スルトその綱を引っ張ってくれ、そっちの処をどうしてくれと、船頭が何か騒ぎ立って乗組の私に頼むから、ヨシ来

たというので綱を引っ張ったり柱を起したり、おもしろ半分に様々加勢をして、先ず滞りなく下ノ関の宿に着いて、

『今日の船はどうしたのか、こうこういう波風で、こういう目に遇った、潮をかぶって着物が濡れた』というと、宿の内

儀さんが『それはお危ないことじゃ、あれが船頭ならよいが実は百姓です。この節暇なものですから、内職にそんな

ことをします。百姓が農業の間に慣れぬことをするから、少し波風があると毎度大きな間違いを仕出かします』とい

うのを聞いて、実に怖かった。成程、奴らが一生懸命になって私に加勢を頼んだのも道理だと思いました。」

 

関門海峡

 

 現在、下関から大阪に向かうフェリーはないが、名門大洋フェリー、阪九フェリーが新門司から大阪、神戸にフェ

リーを就航させている。460qほどの船旅であり、夕方出港すると翌日の朝には到着する。これが江戸時代だと、

2週間以上はかかる結構苦労する旅となる。

 

 「それから船場屋寿久右衛門の処から乗った船には、三月〔二月の誤り〕のことで、皆上方見物、それはそれは

種々様々な奴が乗って居る。間抜けな若旦那も乗って居れば、頭の禿げた老爺も乗って居る、上方辺の茶屋女も

居れば、下ノ関の安女郎も居る。坊主も、百姓も、有らん限りの動物が揃うて、そいつ等が、狭い船の中で、酒を

飲み、博打をする。下らぬことに大きな声をして、聞かれぬ話をして、面白そうにしている中に、私一人は真実無

言、丸で取付端がない。船は安芸の宮島へ着いた。私は宮島に用はない唯来たから、唯島を見に上がる。他の連

中はお互いに朋友だからいいだろう。皆酒を飲む。私も飲みたくて堪らぬけれども、金がないから唯宮島を見たば

かりで、船に帰ってきてむしゃむしゃ船の飯を食ってるから、船頭もこんな客は嫌だろう、妙な顔をして私を睨んで

いたのは今でも覚えて居る。その前に岩国の錦帯橋も余儀なく見物して、それから宮島を出て讃岐の金比羅様

だ。多度津に船が着いて金比羅まで三里という。行きたくないことはないが、金がないから行かれない。他の奴は

皆船から出て行って、私一人で船の番をして居る。そうすると一晩泊って、どいつもこいつもグデングデンに酔って

陽気になって帰って来る。癪に障るけれども何としても仕用がない。」

 

宮島(大鳥居)

 

岩国(錦帯橋)

 

 一見、昔の船旅は現代の船旅と違って劣悪なものだとも思われるが、しかしよく考えてみると、していることは現

代の豪華船によるクルーズと大差ないことに気がつく。つまり飲食し、博打(カジノ?)をし、会話を楽しみ、寄港地

ではオプショナル・ツアーに参加する。現代の船旅の原型を見るようだ。それは西洋の客船の状況も同じところか

らすると、人間、船に乗れば食事をし、酒を飲み、博打をして会話を楽しみ、寄港地では上陸して酒を飲んで陽気

になりたいものらしい。

 

 「そういう不愉快な船中で、如何やらこうやら一五日目に播州明石に着いた。朝五ッ時、今の八時頃、明日順風

になれば船が出るという、けれどもこんな連中のお供をしては際限がない。これから大坂まで何里と聞けば、一五

里という。『ヨシ、それじゃ俺はこれから大坂まで歩いて行く。就いてはこれまでの勘定は、大坂に着いたら中津の

倉屋敷まで取りに来い、この荷物だけは預けて行くから』というと、船頭は中々聞かない。『そう旨くは行かぬ、一切

勘定を支払って行け』という。いわれても払う金は懐中にない。その時に私は更紗の着物と絹紬の着物と二枚あっ

て、それを風呂敷に包んで持っていたから、『ここに着物が二枚ある、これで賄いの代位あるだろう、他に書籍もあ

るが、これは何にもならぬ。この着物を売ればその位の金になるではないか。大小を預ければよいが、これは挾し

て行かねばならぬ。何時でもよろしい、船が大坂に着次第に中津屋敷で払ってやるから取りに来い』というても、船

頭は頑張って承知しない『中津屋敷は知ってるが、お前さんは知らぬ人じゃ。何でも船に乗って行きなさい。賄いの

代金は大坂で受取るという約束がしてあるから、それはよろしい。何日掛かっても構わぬ、途中から上がることは

できぬ』という。こっちは只管頼むと小さくなって訳をいえば、船頭は何でも聞かぬと剛情を張って段々声が大きくな

る。

 喧嘩にもならず実に当惑していた処に、同船中、下ノ関の商人風の男が出てきて、俺が請合うと先ず発言して船

頭に向かい、『コレお前もそう、いんごうな事を言うものじゃない。賄い代の抵当に着物があるじゃないか。この方

はお侍じゃ、貴様達を騙すつもりではないように見受ける。もし騙したら俺が払う。サアお上がりなさい』というて、

船頭もこれに安心して無理も言わず、ソレカラ私はその下ノ関の男に厚く礼を述べて船を飛出し、地獄に仏と心の

中にこの男を拝みました。」

 

 大阪の渡船は、今でも木津川などで活躍している。江戸時代は、武士はただで乗船できたようだ。現代でも異動

に伴う引越しの際に、自動車の航送運賃を踏み倒そうとしてマスコミに批判されたキャリア官僚がいたが、武士の

伝統はまだ生き続けているらしい。もっとも福澤諭吉は武士の出身ではあるものの、武士が威張る封建社会をひ

どく嫌っていた。

 

 「そこで、明石から大坂まで一五里というものは、私は泊ることが出来ぬ。財布の中はモウ六、七〇文百にも足ら

ぬ銭でとても一晩泊ることは出来ぬから、何でも歩かなければならぬ。途中何という処か知らぬが、左側の茶屋

で、一合十四文の酒を二合飲んで、大きな筍の煮たのを一皿と、飯を四、五杯食って、それからグングン歩いて、

今の神戸辺りは先だか後だか、どう通ったか少しも分からぬ。そうして大坂近くなると、今の鉄路の道らしい川を幾

つも渡って、有難い事にお侍だから船賃は只でよかったが、日は暮れて闇夜で真っ暗、人に逢わなければ道を聞

くことが出来ず、夜中淋しい処で変な奴に逢えば却って気味が悪い。

 その時私の挾している大小は、脇差は祐定の丈夫な身であったが、刀は太刀作りの細身で、どうも役に立ちそう

でなくて心細かった。実を言えば、大坂近在に人殺しの無闇に出る訳もない、ソンナに怖がる事はない筈だが、一

人旅の夜道、真暗ではあるし臆病神が付いているから、ツイ腰の物を頼りにするような気になる。後で考えれば却

って危ないことだと思う。ソレカラ始終道を聞くには、幼少の時から中津の倉屋敷は大坂堂島玉江橋ということは

知っているから、唯大坂の玉江橋へはどう行くかばかり尋ねて、ヤット夜十時過ぎでも有ろう、中津屋敷に着いて

兄に逢ったが、大変に足が痛かった。」

 

 中津藩の蔵屋敷は、かって大阪大学附属病院があった辺りであり、緒方洪庵の適塾はそこから堂島川に沿って

東に1キロほどのところにある。現在、日本銀行大阪支店や大阪市役所などが建ち並ぶオフィス街となっており、

当時を想像することはかなり難しい。次の写真は、そうしたビルの谷間にある、当時を伝える空間だ。

 

福澤諭吉誕生地(大阪堂島玉江橋)

緒方洪庵旧宅及び塾(大阪市中央区北浜)

 

〔参考文献〕

 富田正文編『福澤諭吉選集第十巻福翁自伝』(岩波書店、1981年)

〔関連リンク〕

 慶應義塾大学出版会

 諭吉の里ネット


 ここに掲載した写真はすべて私が撮影したものであり、法律上、著作権は私に帰属しますが、コンピュータにダ

ウンロードして閲覧するというインターネットの特殊性から、著作権の主張は極めて困難と考えます。

そこで、著作権の主張はいたしません。

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01/12/18