沖縄編(OKINAWA)
1リゾートアイランド(RESORT ISLAND)
万座毛(MANZAMOU)
沖縄の夕日は実に大きい。日本本土で見る夕日が百円玉だとすると、沖縄の夕日は五百円玉ぐらいはあるだろ
うか。にっぽん港町紀行の最終回はここ沖縄を取り上げようと思う。
ところでこのページ、これまでの港町紀行と少し構成が異なっている。今までは町を中心に取り上げてきたが、沖
縄については那覇を中心に沖縄本島のごく杜撰なスケッチにとどめている。また私が沖縄を訪れたのは、本土復
帰20周年に沖縄が沸いた1992年であり、最新の情報を網羅するものではないことも述べておかなければならない
だろう。このページを参考に沖縄旅行を計画される方は、その点を留意していただきたい。また、全てがパノラマサ
イズで撮影されている点も、違うと言えば違う点である。
万座ビーチ (MANZA BEACH)
沖縄の海は美しい。これはよく言われることだけれども、本当にそうだと思う。こういうところに来たら、何もしない
でのんびりしたいもの。しかし、初めて本土から沖縄にやって来た場合、何もしないでのんびりすることは少し難し
いかも知れない。
恩納海岸(仲泊周辺)
それは沖縄というところが、日本というにはあまりに日本的ではなく、しかし外国というにはあまりにも日本的なと
ころであることから、「沖縄とはどういうところか」に始まって、「では日本とは何か」、「日本人とは何者か」といった
厄介な問題についてまで関心を呼び起こしてしまうからだ。事実、本土から沖縄にやって来て、この「沖縄病」に罹
患してしまった人は、小説家、ジャーナリスト、音楽家、学者など数限りなくいる。沖縄のあらゆるものを調べては、
本土のそれと比較し、「ああでもない、こうでもない」と論じてしまいたくなったりもするわけだ。
私も沖縄を訪れてから暫くの間この沖縄病に罹患し、書店の「沖縄問題」とかいう、ちょっとヤバそうなコーナーに
ある本を買ってきては、読みふけったものだった。
伊江島 (IEJIMA)
沖縄については様々な取り上げ方ができるが、まず「リゾートアイランド」としての沖縄という捉え方があると思う。
1975年、本土復帰事業の一環として開催された沖縄国際海洋博覧会、会場跡地の「国営沖縄記念公園」から見
えるこの伊江島も、現在ではキャンプやダイビングで賑わっており、リゾートになっている。しかしこの島は、第二次
世界大戦末期の沖縄戦の激戦地のひとつであり、ここだけで4,300人以上の人々が戦死した悲劇の島でもある。
というわけで、沖縄に来て戦争のことを語らずに済ますことはやはり難しい。そこで、ごく簡単ではあるが、沖縄本
島南部の戦跡を訪ねておこうと思う。
2沖縄戦 (THE PACIFIC WAR)
南風原(HAEBARU)
南風原と書いて、「はえばる」と読む。第二次世界大戦末期、日本を無条件降伏させるため日本本土作戦を念頭
に置きつつ実行されたのが、硫黄島攻略と沖縄攻略だった。沖縄戦の前哨戦は1945年3月10日の東京大空襲に
始まり、3月26日には慶良間諸島に米軍は上陸した。沖縄本島には嘉手納海岸に4月1日に上陸したものの、「出
血持久戦」を決意していた日本軍はさしたる抵抗もせず、首里に立てこもって持久戦に出た。この首里を巡る攻防
は激烈で、雨の中泥まみれになって戦い、日本側は「斬り込み」(最近スポーツの中継などで軽薄なアナウンサー
が意味も分からず使うことがあるが実に不愉快な言葉だ)、「肉迫攻撃」(爆弾を抱いて戦車に体当たりすること)な
どで抵抗をしたという。しかし、遂に首里を放棄し南部の摩文仁に撤退をした。このとき県民の多くは軍の後を追っ
て南下し、梅雨で泥海と化したこの界隈をさまようことになった。種々の理由から日本軍によって殺された者も少な
くなかったというから、驚きである。日米合わせて20万人以上の人が亡くなった。そのうち一般住民の死者は10万
人を超える。
しかし実際にこの辺りを訪れてみると、拍子抜けするほど穏やかなところだ。さとうきび畑の左側の学校の校庭で
は運動会が開かれていた。「さとうきび畑」という歌ではないが、広いさとうきび畑は風が通り抜けるだけだった。
ひめゆりの塔
ひめゆり部隊の話はあまりにも有名なので、私が解説をするまでもないことだろう。ひめゆり学徒隊(沖縄師範学
校女子部・沖縄県立第一高等女学校の生徒)と教職員224人を祀っている。右に見える壕は伊原第三外科壕で、6
月19日早朝に学徒41人、教師5人が犠牲になったところだ。
ひめゆり平和祈念資料館
その壕の裏手には、こうした平和祈念館があり、元ひめゆり学徒の証言等を聞くことができる。やはりここは訪れ
ておくべきところだと思う。
ただ残念なことがある。写真ではお分かりにならないと思うが、このひめゆりの塔の前には土産物店が並び、観
光バスがひっきりなしに往来する観光地になってしまっていた。ひめゆり学徒はこうして地元に貢献しているといえ
なくもないが、何ともちぐはぐな感じがしたものだ。ただ、この近くにある第一外科壕は、何故かひっそりとしてい
た。また戦跡は南部に集中しているが、これらを廻ることはレンタカーを利用したとしてもかなり大変だ。あまりに数
が多いし、多くは落盤の危険があるハブが出そうな洞窟だからだ。
3在日米軍 (U.S. FORCES JAPAN)
キャンプ・キンザー (CAMP KINSER)
沖縄本島に観光目的で訪れた人は、那覇から国道58号線を恩納海岸に向かって北上されたことだろう。しかし
暫く車を進めるとこうした米軍基地が両サイドに延々と広がることになる。異国ムードが味わえるとも言えるが、星
条旗がたなびく光景に、その内漠然とした疑問が沸いてくるはずだ。狭い沖縄に在日米軍基地の75%が集中して
いる。Y ナンバーの米軍専用車が多い。
米軍基地
フェンスはどこまでも続く。写真の左側に警告文が掲示されているのが見えると思うが、このように書かれてい
た。「日米安全保障条約第6条に基づき米合衆国軍隊に提供された施設につき、許可なく立ち入った者は日本国
の刑事特別法で罰せられる。」
読谷村にて
読谷村と書いて、「よみたんそん」と読む。この村は、米軍基地問題で度々マスメディアに登場するので、知名度
はかなり高いのではないかと思う。キャンプ・ハンザーの「象のオリ」と呼ばれる巨大アンテナ、あるいは集団自決
のあった「チビチリガマ」などを連想した方もいることだろう。
写真の小売店は米軍関係者を意識しているのかどうかは分からないが、店名がすべてアルファベットで表記され
ていたのが印象的だった。沖縄の看板はこのように「板書き」のものもあるが、台風に備え「コンクリート直書き」の
ものも多い。
4那覇 (NAHA)
国道58号線
さて沖縄の政治・経済・文化の中心地、那覇の街だ。人口は30万人ほどだが、人口密度が高いせいか、東京の
新宿の街のような、そんな賑わいを見せている。この国道58号線は沖縄の大動脈。かってのハイウェイ・ワンであ
る。右にちらりと見える川は、久茂地川だ。
国際通り (KOKUSAI DOORI)
早速那覇の街をぶらついてみよう。ここ国際通りは那覇のメインストリート。この通りを車で走るのは渋滞がひど
いのであまり利口なことではないと思うが、ぶらぶらするのは楽しい。下の写真に見える「観光戻税制度」はかって
旅行主任者試験ではヤマの一つとなっていた制度(2002年5月14日までの措置)。沖縄の民謡などに興味がある
方はレコード店を覗いてみるといいだろう。本土のレコード店では殆ど入手することができないものを手に入れるこ
とができる。同様なことが本についても言える。沖縄は日本の一地方とは思えないほど、出版が盛んなところだ。
ただあまり夢中になって、「沖縄病」を悪化させないように。
こうした繁華街には「英会話学校」の看板がつきものだが、不思議に見当たらなかった。英語を学ぶという観点
からすると、沖縄ほど英語を勉強するのに適した環境はないとも言えるのだが、人気はないようだ。確かに日本本
土では西洋社会に対する憧れから、「英語が好き」などと呑気なことを言っていられるのだが、ここ沖縄では戦後27
年にわたって米軍の統治下に置かれ(異民族支配)、現在においても基地問題は解決されていないのだから、好
き好んで英語なぞ勉強する気にはなれないのかも知れない。もったいないことだが…。教会や神社も見かけなかっ
た。
市場(MARKET)
那覇にやって来たら、是非、市場(まちぐゎー)に足を運ぶことをお奨めしたい。どこの町を訪れた場合でもそうだ
が、市場に行ってみるとその町の庶民の生活をよく知ることができるからだ。
この市場、迷路のように入り組んでいて、未だに全貌はつかめていないが、食料品をはじめ、衣料品、雑貨な
ど、ありとあらゆるものが売られている。写真中央に黒いステッキのようなものと蚊取り線香のように輪になってい
るものがぶら下がっているのが見えると思うが、これはイラブーと呼ばれる海蛇の燻製。最初はギョッとするが、慣
れてくると当たり前のものになってしまう。産地として久高島が知られるが、ここでは漁獲権をノロと呼ばれる女神
官が持っている。イラブー料理は首里の上流階級の人々に精力強壮剤(くすいむん)として珍重された料理で、10
時間以上はかけて作るかなり手の込んだ料理だ。もの好きな私は早速挑戦してみたが、一見不気味な料理であ
ることは否定できない。しかし暑い沖縄でバテバテになったときには重宝する食べ物だろう。こくのある濃厚なスー
プが印象的だ。
市場ではこうした衣料品も売られている。いかにも沖縄的なデザインだと思う。この他、婦人物の下着を扱ってい
る店もあったが、ここは凄かった。だらしがないくらい巨大なブラジャーとパンツが、大量にぶら下がっていた。しか
し、誰がああいうのを買うのだろうかねぇ。香港にでもいるような気分だった。
食料品を覗いてみよう。こちらはお魚。コバルトブルーのイロブダイが目を引く。右に見える新聞は「琉球新報」
だ。沖縄にはこの他、「沖縄タイムス」があるが、日本本土の新聞を日頃読んでいる者にとっては、その論調がいさ
さか革新的なので驚く。また、「沖縄県民」という言葉がよく出てくるのも印象的だった。「琉球国民」といった意味合
いが込められているように感じたものだった。
沖縄料理と言えば、豚肉だ。この豚がバラバラに解体され、足、耳、内臓、といったように見事に分類されて売ら
れている。豚肉料理としては、「ラフテー」という泡盛で煮こんだ豚の角煮が食べやすいだろう。「足ティビチ」という
のもあるが、こちらは少し癖がある。もっと癖があるものとしては「ヒージャー(山羊)料理」がある。こちらは北海道
のジンギスカン料理のマトン、ラム肉のように独特の匂いがある肉なので、苦手とする人がたぶんいることと思う。
沖縄県産の豚肉は安くて旨い。普段スーパーマーケットで買う、薄くてまずい肉を豚肉だと思っている方にとって
は、衝撃的かも。
衝撃的といえば、その豚肉がこうして売られていることだろう。豚肉が売られているというよりも、「豚」そのものが
そこにある、といった風情だ。冷蔵されずに山積み状態だが、これはその日の内に売れてしまうからだそうだ。
市場には大勢の人が働いているが、従業員が大勢いるわけではない。極端な言い方をすれば、一人一軒という
感じだ。すなわち一コマ、3尺ほどのスペースが、一つの店となっている。だから目移りして隣の商品を買おうとする
と、隣の店のものだったりするので気を付けなければならない。また、売り子がすべて女性だというのも特徴的だろ
う。市場と言うと威勢のいい掛け声が飛び交い、時には怒られているような感じがするところだが、沖縄の市場は
全く違う。
「マンゴジュースいかがですか。」 市場の入口で白髪のおばあちゃんが、遠慮がちに声を掛けてきた。この手で
迫られると私は弱い。思わずマンゴジュースの他、野菜ジュースまで買ってしまった。かなりのお年だったから、沖
縄戦は体験されているのだろう。肉親を亡くされたのだろうか。あれこれ想像した。
食堂街 (RESTAURANTS)
牧志第一公設市場の2階は、こうした食堂街になっている。ここは旨いものが手軽に安く食べられるので、お奨め
だ。持論だが、私はホテルのレストランの食事は日本でも海外でもまずいと思っている。世の中には旨いという神
話があるらしく、「あの何とかホテルのシェフが」とかいうと、高級で旨いということになっているが、皆さんいかがで
したか。高いだけではなかったろうか。旨いものは案外こうしたところに潜んでいるのではないかと思う。大都会の
場合は、何とかビルの地下辺りにひっそりとあるものだ。そうしたものを捜すのが趣味になっている。
きらく食堂のメニュー (MENU)
とは言っても、ここの食堂街はどんなガイドブックにも取り上げられていて、あまりにも有名だ。初めて沖縄料理を
食べられる方は、左端に見える「ゴーヤチャンプル」がいいと思う。なおこれも案外有名な話しだが、これらのメニュ
ーは一品料理というのではなく、すべてに御飯と味噌汁とが付いている。だからその辺を注意して注文しないと、ど
んぶり御飯と味噌汁とがテーブルに溢れることになる。
5琉球王国(KINGDOM OF RYUUKYUU)
守礼門 (SHUREI-MON)
最後に、琉球王国としての沖縄という観点から、古都首里の町を散歩してみることとしよう。ご承知のように…、と
書きたいところだが、あまりご承知ではないことかもしれない。沖縄はかって独立国家であった。つまり日本本土か
ら見ると外国であった。沖縄の歴史書『中山世鑑』などによると、1187年に舜天が琉球を統一したとされ、そこから
舜天王統、英租王統、察渡王統、第一尚氏を経て、第二尚氏の時代に至ったとされる。1470年、つまり室町時代
に始まる第二尚氏の時代は、言わば琉球の栄光の時代で、中国、日本、朝鮮、東南アジア諸国との貿易で繁栄し
た。首里城の創建年代は明らかではないが、1427年には既に存在していたことが判明している。
ところがこうした琉球に目をつけたのが日本で、種々の言いがかりをつけて1609年、薩摩藩の島津家久は琉球
を侵略した。ここからこの国の苦難の歴史が始まる。島津氏は琉球を滅ぼすことなく、中国(明・清)に隠れて琉球
を支配し、貿易の利益を搾取し続けた。そして明治維新後、琉球の帰属が問題となったが、日本政府は1879年、
武力を盾に首里城の明渡しを断行し、首里城は廃城となったのである(琉球処分)。
首里城はその後、沖縄神社などとして利用されていたが、第二次世界大戦中、ここの地下に「天ノ巌戸戦闘指令
所」なる巨大な陣地壕が掘られ、大激戦地となった。そのため全ての建築物、史跡は破壊され、琉球王国を伝える
ものはすべて失われて現在に至っている。したがって写真の守礼門を含め、すべては戦後に復元されたものだ。
守礼門は1958年再建の第二楼門。かっては現在の首里高校裏側付近の場所に中山門という同型の楼門があ
り、その門から守礼門までが、綾門大道(あやじょううふみち)と呼ばれていたという。
私がこの辺りをウロウロしていたとき、尋ねもしないのに土手の下に口を開けた穴を指差して、「これは防空壕の
跡ですよ。」と教えてくださった方がいた。きっとその方はこうした歴史を伝えたかったのだと思う。
漏刻門(左)と瑞泉門(右)(ROUKOKU-MON, ZUISEN-MON)
守礼門をくぐると、左手に園比屋武御嶽石門(そのひやんうたきいしもん)という国王が道中の安泰を祈願した拝
所がある(1957年の再建)。そして歓会門(正門、1973年の再建)をくぐるとご覧の場所となる。私が訪れたときは
再建されてまもなくだったので、石垣が白かったが、現在は黒ずんで貫禄が出てきているのではないかと思う。瑞
泉門、漏刻門は、1992年の再建。また写真にはないが、通用門として利用された久慶門は、1983年に復元されて
いる。戦後暫くの間、ここは琉球大学のキャンパスとして利用されていた。
首里城正殿 (SHURI CASTLE)
そして広福門、奉神門を抜けると、御庭(うなー)に出る。写真の正殿をはさみ、左に北殿、右に南殿・番所があ
る(いずれも1992年の再建)。琉球文化のシンボルというべき首里城正殿が復元され、地元の人々は本当に喜ん
でいるようだった。
円覚寺跡 (SITE OF ENKAKUJI TEMPLE)
首里城周辺を散歩してみよう。ここは円覚寺。1492年に鎌倉の円覚寺を模して作られた、第二尚氏の菩提寺。ご
覧の総門と、池に架かる放生橋は戦後の再建。しかし、現在本堂などはない。
またこの近くには円鑑池という池があり、その中島には弁財天堂がある。また龍潭池という池も復元されていた。
その先に沖縄県立博物館があり、ここにある『おもろそうし』や『中山世鑑』は必見だろう。
玉稜(タマウドゥン)(TOMB OF KINGS)
首里城から少し下ったところに第二尚氏王統歴代の墓がある。日本の大名の墓所とは随分感じが違う。
金武町の石畳道
この石畳道はわりかし有名な割にはあまり訪れる人はいない。前に述べたように、この辺りの戦闘は凄惨を極め
たが、この付近は砲撃の死角になっていたため奇跡的に往時の石畳が残っている。かっての首里の町を偲べる
貴重な場所だろう。
左に「石敢當」というのが見えるが、突き当たりに置かれる魔除けの一つで、中国から伝来したものらしい。
シーサー(琉球村にて)
もう一つ沖縄で気が付く珍しいものとして、「シーサー」がある。これも魔除けの一種で、神社の狛犬のようなも
の。しかし、狛犬と違い一人で家を守っている。最近ではシーサーのいる家が減ってきているという。
サーターヤー(琉球村にて)
これはかっての製糖工場だが、現在の沖縄にはこうした生活は残っていない。テーマパークにでも行かなければ
お目にかかれない光景だ。因みにここで作られた黒糖を使った砂糖の油揚げ(さーたーあんだぎー)は旨かった
な。
再現された進貢船(スタジオパーク琉球の風にて)
「ところで船はどうしたの?」そうした批判を封ずるべく、ちゃんと船の写真を掲載しようと思う。写真の船は、NHK
の大河ドラマ『琉球の風』(1993年1月―6月)の撮影に使われた復元された進貢船。15世紀から16世紀にかけて琉
球はこうした進貢船を使った進貢貿易や、日本、朝鮮、中国、東南アジアとの中継貿易で大いに発展した。この
日、波がやや高かったこともあって、船は木の葉のように揺れていた。昔の人は船酔いはしなかったのだろうか。
つまらないことを心配してしまった。
ここに掲載した写真はすべて私が撮影したものであり、法律上、著作権は私に帰属しますが、コンピュータにダウ
ンロードして閲覧するというインターネットの特殊性から、その主張は極めて困難と考えます。
そこで、著作権の主張は致しません。
02/06/26