小樽・函館・松前編
(OTARU/HAKODATE/MATSUMAE)
小樽(OTARU)
小樽運河(OTARU CANAL)
これが有名な小樽運河。にっぽん港町紀行は、ここ北海道小樽から始めることにしよう。ところでこの写真、別に
フォトレタッチソフトで加工したわけでもなく、撮った写真をそのままスキャンしただけだ。しかし自分でいうのも照れ
るが、美しい写真だと思う。やはり被写体がそれだけすぐれているのだろう。
JR小樽駅(OTARU STATION)
JRを利用して小樽を訪れた場合、この小樽駅から旅が始まることになる。この駅舎は1934年の建設。多分2年前
に建設された上野駅の影響を強く受けていると思う。なかなか素敵な駅舎だ。
レインボータウン(DOWNTOWN)
この辺りが小樽の繁華街。花園銀座街とかいう。銀座ねぇ…。ところで「新倉屋」というのが見えると思うが、ここ
の「花園だんご」は旨い。日保ちしないのでお土産には出来ないかもしれないが、ここで食べてしまえばいいだろ
う(なお札幌にも同じ屋号の団子屋があるけれども、別の店なのでご注意)。あと洋菓子の「館」もお奨め。
小樽中央市場(OTARU CHUUOU MARKET)
小樽の街で目に付くものと言えば、ロシア人と市場だろう。とりわけ市場は多い。この中央市場の他、燈台市場、
三角市場、妙見市場、入船市場など10ヵ所はある。これらの市場で飛び交う言葉は威勢がいい。那覇の牧志公設
市場とは随分違う。私は思わず石川啄木の「一握の砂」に収録された歌を思い出してしまった。
「かなしきは小樽の町よ 歌ふことなき人人の 声の荒さよ」
北海道の言葉について言うと、ここ小樽を含め北海道では自分が方言を話しているという意識が希薄な人が多
い。これは北海道が全国各地からの移住者によって開拓された移民者の国という歴史に根ざすものだろう。また
敬語も歴史ある城下町のように発展しておらず、言葉遣いが乱暴な人が多いような気がする。方言を変に意識し
て方言コンプレックスを持ってしまうよりは遥かにいいが、いい年をして敬語が使えないというのも困るのでは。
小樽運河(OTARU CANAL)
再び小樽運河。この運河、一時は全面的に埋め立てて自動車道にする計画があった。現在の価値観からすれ
ば愚かな計画だが、高度経済成長期の日本では汚い運河は埋め立てて道路にするという考えが優れたものとさ
れていたのだろう。実は東京も運河のある街だったが、現在はその殆どが埋め立てられて道路になっている。残
念なことだと思う。
旧北海道拓殖銀行小樽支店 (FORMER HOKKAIDO TAKUSHOKU BANK OTARU BRANCH)
この建物は旧北海道拓殖銀行小樽支店であり、かってプロレタリア作家の小林多喜二が勤務したところだ。その
後暫く雑居ビル、ホテル、ペテルブルグ美術館などとして使われてきたが、1997年の北海道拓殖銀行の倒産の影
響を受け、美術館も閉鎖されてしまった。小樽の街の歴史を見つめてきた建物といえるだろう。ところで、かなり前
になるが、私の祖父はこの小樽の街で倉庫会社を経営していた。実はその時の事務所が「雑居ビル」時代のこの
建物の中にあった。子供の頃ここを訪れたときは、もちろん観光客が足を運ぶようなところではなかったけれども、
そんなわけでこの建物は私にとっても歴史的建造物なのである。
さて多くの方はこの写真の右手にあるエリアで、ガラス工芸とかオルゴールとかを楽しまれるのだろうが、ここは
船のサイト。左に曲がって船のお勉強をしようと思う。
旧日本郵船株式会社小樽支店 (FORMER NIHON YUSEN COMPANY OTARU BRANCH)
ということでやって来たのが、旧日本郵船小樽支店だ。この建物は1906年に日本郵船が小樽支店として新築し
たもの。全国各地にこうした建物を残しているところからすると、当時の船会社はとても大きな存在だったのだと思
う。国の重要文化財。因みに私はある女子大生に、「日本で一番大きな船会社を知っている?」と聞いたことがあ
るが、彼女は全く答えられなかった。悲しいことだ。
営業室
この建物は、1955年に小樽市が譲受け、暫く小樽市博物館として利用されてきたが、その後内部を往時の姿に
復元し、今日に至っている。
三等船客切符
船絵皿・秩父丸など
復元された1階の営業室には、白山丸の模型のほか、こうした往時を偲ぶ展示品がある。秩父丸はその後鎌倉
丸に改名した10,749G/Tの戦前の日本最大の客船だ、というようなことはもちろん皆さんご存知でしょう。
会議室 (CONFERENCE ROOM)
この建物を有名にしているのが、この会議室。1906年11月13日、日露戦争の講和条約による樺太の国境確定
会議がここで開かれた。日露戦争と聞いていつも思い浮かべるのが中東での日本人の人気だ。ヨーロッパ列強の
植民地支配に苦しんだ歴史を持つ中東では、ロシアと戦って勝利したことのある日本人が立派に見えるらしい。誉
めてもらえるのは嬉しいことだが、しかし日清戦争、日露戦争に勝利したという自惚れが第二次世界大戦の悲劇
に結びついたわけで、あまり喜べないことであるのは確かだ。
北前船 (KITAMAE-SEN)
この旧日本郵船小樽支店から少し行ったところに、小樽交通記念館がある。ここは北海道の鉄道の発祥の地
(1880年、手宮―札幌)というだけあって、鉄道に重点を置いている。船の展示もないわけではないが、少ない。そ
うした中で目立っているのが、この「北前船」の模型だ。かって大阪と北海道松前の間をこうした船が行き交い、交
易していたという。こうした解説を読むと、北前船の北の終着点、松前を訪れたくなったのは私だけではないだろ
う。そこで早速松前を訪れることとしようと思う(なんかすごく強引だが)。
函館(HAKODATE)
JR函館駅 (HAKODATE STATION)
「♪はるばる来たぜ 函館へ」と、函館に来てしまった(インターネットは便利ですね)。ここが函館駅。かってはこ
こに連絡船が到着したので、まさに北海道の玄関口だったが、現在は青函トンネルができ、またフェリー乗り場も
別の場所に移転したので、折角の駅前は寂れている。街の中心は五稜郭の方に移動してしまったらしい。駅前を
活性化させるためにはフェリー乗り場を再び函館駅にするしかないのではなかろうか。
函館朝市 (HAKODATE ASAICHI MARKET)
現在朝7時。函館駅に隣接する函館朝市はこんなに賑わっている。しかし、醒めたことを言うと、ここは函館市民
の胃袋を満たすところというよりも、観光客の胃袋を満たすところという感じか強い。が、単純に買い物を楽しんで
みることとしよう(論理が二転三転し、分かりにくいですか)。朝4時から始まるので、早朝に函館に到着する旅行を
するとよいだろう。この朝市は終戦直後の青空市場から始まったそうだ。
きくよ食堂
そうした朝市の中に、食堂街がある。名物は朝市丼。「巴丼」の元祖を謳う、きくよ食堂に行く。ここのチラシには
こんなことが書いてあった。「昭和31年より営業の暖簾を守り続け昔ながらの炭火で炊くご飯の味は格別です。も
ちろん魚も炭火焼き。なんといっても新鮮な生ウニ、イクラ、ホタテの盛の良さが自慢です。函館の味を充分に堪
能して下さい。」
函館巴丼 (HAKODATE TOMAEDON - a kind of Sushi)
これが函館巴丼。早起きした甲斐があった。いまでも熱い味噌汁の味は覚えている。ところでこの写真を掲載す
るにあたって、ヨーロッパの人が見たときどんな風に見えるか少し心配してしまった。日本人の感覚だと、よだれが
出そうな生ちらしでも、外国人の感覚だと不気味な食べ物に見えるかもしれない。刺身、納豆、イカの塩辛あたり
が不気味な食べ物の代表格だろう(確かにイカの塩辛は不気味だよね)。
メモリアルシップ摩周丸 (MASHU-MARU)
函館駅の裏手には、青函連絡船として活躍した摩周丸が係船されている。青函連絡船については別の機会に特
集してみたいと思う。
などと色々書いてきたが、この旅の目的は松前に行くことだった。松前にはかって鉄道が通じていたが、1988年
に廃止されてしまった(松前線木古内―松前)。そのため現在は木古内までJRで行き、そこから函館バスに乗り換
えて行くことになる。松前は函館の近くのようだが、実は3時間ほどかかり結構遠い。木古内までは普通列車で行っ
たが、台湾からの観光客で賑わっていた。台湾では北海道ブームらしい。我先に自由席車両に乗り込み座席を確
保してしまう台湾の添乗員のバイタリティには脱帽した。写真を撮り合ってツアーの仲間うちで大騒ぎしているとこ
ろなどは、日本人ツアー客と殆ど同じだった。話しかけてみたかったが、私は中国語が出来ないので、日本語で話
しかけようか、英語だったらビックリするだろうか、などと迷っている内に木古内に着いてしまった。バスに乗り換え
る。
松前(MATSUMAE)
小島(中央左寄り)と松前湾
これが北前船の終着点、松前の海岸だ。近くに津軽海峡があり東西に遮る山脈がないためか、季節風が強く吹
きつけ、厳しい。途中、白神岬を通過したが、国道を波が洗い絶壁が迫る難所で、ヒヤヒヤした。本州の竜飛崎が
直ぐそこに見える。この辺りがかっての北海道(蝦夷地)の中心地というわけだ。
松前城 (MATSUMAE CASTLE)
やっと松前に到着。この町のシンボル、松前城に行く。本丸御門(重要文化財)と天守(再建)。松前城は、正式
には福山城という。しかしそれでは広島県の備後福山城と混同するので、松前城と呼ばれてきた。
北海道にはご承知のように、先住民族であるアイヌがおり、日本人(和人、シャモ)による開拓が始まったのは、
明治に入ってからだ。しかし、松前に日本人が住むようになったのは古く鎌倉時代に遡り、ここに城が出来たのは
1430年頃、南部氏と争った相原氏が大館を構えたのがその始まりと言われる。その後1457年のコシャマインの乱
を静めた武田信広の子孫が相原氏を滅ぼし、5代目の慶広が1593年に豊臣秀吉から蝦夷地統治の認可を受けて
藩として成立した。その後徳川家康からも認可を受けて、松前氏に改姓し、城を築いた。それが松前城だ。この城
は1669年のシャクシャインの乱(静内のアイヌ民族との抗争)、幕末の箱館戦争を経て、明治維新の後、北海道開
拓使から封建の象徴だとされて天守と本丸御門を除いて破壊された。しかしその天守も1949年に焼失し、再建さ
れて現在に至っている。以上のような北海道の歴史は、何故か日本史の教科書には書かれていないことだが、私
はかなり面白い大河ドラマの題材だと思っている(あまり語られなかったのは、日本は単一民族国家であるとの幻
想を打ち砕かれる虞があったせいかも知れない)。
天守は松前城資料館となっており、鎧などが展示されている。これはどこのお城もしているようなことだ。しかし私
が注目したのは、この掛け軸。「金毘羅大権現」とある。あの金毘羅さんからここまで運んで来たのだろう。命懸け
だったかも知れない。現在でもここ松前から琴平まで行くのは、大変なことなのに。
こんな掲示板があった。モニタでは解像度が低く読み難いが、北前船により近江商人が松前で活躍したことが書
かれている。この辺りには、北海道の開拓が本格的に始まる前から津軽、秋田、南部地方から人が移り住んでい
たこともあって、東北方言と殆ど違いがない言葉が話されている。残念ながら私はあまり聞き取ることができない。
しかしそうした言葉の中に、「おおきに」とか、「わや」といった関西の言葉が混じっているので驚く。おそらく近江商
人を通じて入ってきた言葉なのだろう。方言に関心のある方は、興味深い地域のひとつだと思う。
法源寺山門(重要文化財)
旅行ガイドには、松前は「北海道の鎌倉」と呼ばれると書かれていた。私はその少々大げさな表現を笑って読ん
でいたのだが、実際に来てみて、その表現が正しいことに気が付いた。これが北海道の景色だろうか。法源寺の
他、龍雲院、光善寺、法憧寺、阿吽寺などがあり、寺町となっている。
松前家墓所(法憧寺)
こうした古い墓所は日本の内地(本州・四国・九州)の城下町には付き物だが、北海道にあることが信じられなか
った。また竹林や桜が豊富だったが、これは京都から輿入れした妃や商人達が故郷を偲ぼうと苗木を植えたこと
に始まるらしい。
廻船問屋(復元)
城の裏手には、「松前藩屋敷」というテーマパークがある。松前は北海道唯一の城下町ではあるけれども、小京
都と呼ぶには少し苦しい。なぜなら私達が普通にイメージする、例えば金沢のような景観が殆ど残っていないから
だ。このテーマパークで当時の様子を偲ぶことができる。武家屋敷、商家、漁家などが再現され、中には蝋人形が
展示されている。すこし可笑しかったのは、この蝋人形が江戸弁を話していたことだ。実際には違っていただろう。
時代劇イコール江戸弁というのは、映画やテレビドラマによって作られた固定観念ではなかろうか。
テーマパークの中には、こうした食事をとるところもある。城下町というと伝統の料理があるものだが、残念なが
ら松前にはそうしたものは伝わっていないようだ。ここのお殿様はあまりそうしたものには力を入れなかったのかも
知れない。もっとも庶民の中で広く親しまれてきたものとして、松前漬がある。「龍野屋」の松前漬がお奨めだ。
北海道の中心は札幌に移り、松前はこのような漁師の町となっている。北前船を偲ぶ船旅をしたいが、現在、大
阪と松前を結ぶ船はない。小樽まで行くと行きすぎてしまうが、それで我慢しようか。
ここに掲載した写真はすべて私が撮影したものであり、法律上、著作権は私に帰属しますが、コンピュータにダウ
ンロードして閲覧するというインターネットの特殊性から、その主張は極めて困難と考えます。
そこで、著作権の主張は致しません。
03/02/10